上海と江南の旅


2009年12月11日(金)〜12月15日(火)

25年ぶりの上海と無錫
蘇州と上海


上海と江南の旅
 25年ぶりの上海と無錫

上海と江南4都市めぐり(4泊5日)、25,000円というH社の安いツアーを見つけた。上海は25年前の1986年4月に訪れた。それ以後中国の各地へ8回行っているが、上海は25年ぶりだ。江南(揚子江の南の地)の無錫や蘇州は行ったことがない。上海の変貌ぶりは、テレビや雑誌やネットで見聞きしているが、この目で見たい。

 安さのからくりは分かっているつもりだが、それを現地で確かめたい。エジプトの旅で知り合い、ときどき国内旅をしているKさんとTさんを誘い、国内の4泊旅よりはるかに安い海外に行くことにした。

25,000円+燃料サーチャージ3,000円+出入国税1,440円+空港施設利用料2,040円。合計31,480円。ちなみにビザは2年前に廃止された。全食事(11回)と観光がついているので、その気になれば、これだけで4泊5日を過ごすことができる。でも私たちは上海のホテル2泊を5つ星にグレードアップした。7,000円の追加で豪華なホテルに2泊できたので、グレードアップは正解だった。

募集ツアーは成田発着だったが、同じコースで+7,000円で羽田発着便があることが分かった。この変更は、ホテルグレードアップ以上に大正解。成田行きと羽田行きの高速バスの差額が往復で3,600円なので、羽田に変更したことによる出費は3,400円。羽田発の便が昼間に限られていることもあり、上海到着は16時35分。成田便の到着は23時半ころだったらしい。わずか3,400円で、早い時刻の到着とホテルでの夕食、家から空港までのアクセスが1時間半ほど短縮。あれやこれや考えるとこんなに得なことはなかった。

2009年12月11日(金)−1日目

羽田発(14時30分)→上海航空(ANA共同便)で上海の虹橋空港着(16時30分) 時差は1時間。3時間のフライト。

 羽田空港が本格的に国際化したのは2010年10月。このとき2009年12月は、羽田発の国際便は限られていたので、カウンターは1つしかない。集まったのは、私たち4人と親子連れ3人だけだ。少ない人数でラッキーと思ったが、成田発の30人が合流するという。37人は多すぎるが、安いツアーに文句を言ってもはじまらない。

 上海航空という中国の航空会社は、ANAと共同便。どおりでキャビンアテンダントもあか抜けしていた。あとで聞いたのだが、成田発の便は機種も小さく食事もまずく、応対も無愛想で「こんなにひどい飛行機は初めてだった」と話す人が多かった。

タクシー

 上海の空港はリニアモーターが都心まで通じている大空港だと聞いていたが、到着したのは小さな空港だ。ガイドが「国際線のほとんどは浦東空港に着きますが、ここ虹橋空港に着くこともあるのです。成田発は浦東に30数便、羽田発は虹橋に4便」と説明してくれた。首都圏から上海までの便が日に40もある。日本の国際空港は他にもいくつかあるから、とてつもない人数が日本と上海を往復していることになる。

25年前の空港も虹橋だった。市内までガタガタ道で、埃が立っていたことを思い出す。屋台のような小さな店が沿道にあったにすぎない。ところが虹橋空港から都心までの高速道路からの眺めは、高層ビルの灯りが途切れることはない。車も立派な中型車か大型車だ(左)。

 帰国後すぐのニュースで、中国の新車の販売台数がアメリカを超え、世界一になったと伝えていた。上海の車の洪水を見てきた直後だけに、非常に納得できる。

「15年前の虹橋開発区計画で、急にきれいになりました。15年前はほとんど空き地だったのです」とガイド言う。私の記憶は25年前。世界中で、こんなにも変化した国は他にないだろうと、感慨深かった。

ホテルのロビー 虹橋エリアは高級マンションが多く、日本総領事館もあるので、日本人駐在員がたくさん住んでいる。日本人の長期滞在者は10万人、韓国人は8万人。他にドイツ・フランスなど、35万人の外国人が住んでいるのが今の上海だ。

宿泊のホテルは虹口エリアにある。虹橋と似ている名前だが、虹口は中心部に近い。ホテルのロビー(左)にはクリスマスイルミが飾ってあったが、田舎のキャバレーという感じだ。

 ちなみにこのホテルは、グレードアップしたホテルではない。でも部屋はこぎれいだったし、夕食も美味しかった。「美味しかったわあ。安いツアーだから覚悟してきたんだけど」とつぶやいたら「美味しいのは今晩だけですよ」とガイドが言う。ガイドの言うことが正しいことは、次の日以降で証明された。   <上海 虹口世紀大酒店 泊>

12月12日(土)−2日目

森ビルとタワー 出発前に、ホテル付近の虹口地区を散歩した。30分の散歩で印象に残ったのは、以前は自転車の洪水だったのに、自転車はほとんど走っていない事と万博に向けた工事をあちこちでしていることだ。工事現場のかなたに有名な電波塔(東方明珠塔)と森ビル(左)が見えた。

 このあたりは戦前、日本の租界があったところ。25年前には租界の名残や魯迅公園を見物したが、魯迅公園に行くには時間が足りず残念だった。

 37人を乗せたバスは8時に出発して無錫と蘇州に向かった。帰国までのスルーガイドは 男性の帳さん。蘇州夜曲や無錫旅情のメロディーがこびりついているので、蘇州と無錫は行ってみたい地だった。

まず上海から150`離れた無錫市へ。無錫に着いた10時半頃には、かなり激しい雨になった。それに寒い。上海は鹿児島と同緯度だからもっと暖かいと思ったが、東京より寒い。

 無錫の女性ガイドは「アラフォー」だと名乗る元気な陳さん。「中国は女性の方が優秀です。同じ待遇だから、ばりばり働いている女性がたくさんいます。私も優秀ですよ」とぬけぬけと言う。

 堂々としていて気が強い中国人女性と自己主張の少ない日本女性の違いは、国民性や体制によるものだろうが、羨ましくもあった。肌や髪の色が同じなので気質まで同じだと思いたいが、大違いだから面白い。

「中国女性は“牛のように働いて、犬のように忠実で、羊のようにおとなしくて、豚のようになんでも食べ、鶏のように朝早く起きる男性”を結婚条件にしています」と、陳さんはニコリともしないで真面目な顔で話す。私だって、こんな亭主が欲しいと思うが、あまりにも身勝手な感じもする。

スルーガイドの帳さんに「男性が女性に求める結婚条件ってなに?」と聞いてみた。「何もありません」と彼はちょっと投げやりな感じで答えた。反論するのもバカバカしいと思ったのか、若い男性の立場が、本当にこんなにも弱いものなのか。帳さんは文革が始まった頃の1967年生まれ。

 無錫の歴史は古い。紀元前14世紀頃、周の都がおかれたことに始まる。錫をたくさん産出したので有錫と言われたが、漢の頃には錫が出なくなり、無錫になったというが。2000年も前のことだから、真偽はわからない。

錫恵公園 明代の庭園 金ぴかの仏さま
錫恵公園入り口 明代の庭園・寄暢園 金ぴかの仏さま

 錫恵公園に行った。錫山と恵山に囲まれているのでこの名がついている。園内には、屋根が反っくり返った中国独特の寺や明代の庭園・寄暢園があり、天気が良ければ楽しいだろうが、震えながら歩いているので、陳さんの熱心な説明もろくに聞いていない。

 「私、歌も上手ですよ」と陳さんが無錫旅情を熱唱してくれた。演奏なしに歌う割には確かに上手だ。自慢するだけのことはある。1986年に尾形大作が歌い大ヒット。尾形大作はいつの間にか表舞台から消えてしまったが、この歌で無錫を訪れる日本人が急増したという。その影響ばかりではないだろうが、日本企業の進出も1000社を越すそうだ。

 次は「泥人形工場見学とショッピング」。工場見学と称した実は買い物をさせる商法が、ツアー代金の安さの一因になっている。恵山でとれる良質な粘土で作られた人形は、陰干しするだけで窯で焼いたりしない。泥のままの人形もあるが、着色したものもある。土曜日で工場は閑散としていた。おかげで、買え買え攻勢もなく、人形を買った人は少なかったようだ。私はもちろん買わない。すでに10賢人の泥人形を持っている。

 昼食後は淡水真珠研究所見学とショッピング。ここの淡水真珠は、カラス貝で養殖する。日本の真珠はアコヤ貝から1個しかとれないが、カラス貝からは何十個もとれる。貝殻を割って、私たちが見ているところで真珠を数えたら34個もあった。

経済が自由化された後の中国人は商売がうまい。上手な話術に乗せられたためか、皺がとれて肌がすべすべになるという真珠クリームをたくさんの人が買った。私は前に北京で買ったが、皺など消えるはずもなく、どこかに捨て置かれたままだ。何10万円もする真珠の首飾りを買った人も数人いたようだ。誰も買わないと、旅行社にはリベートが入らない。それも可愛そうなので、買い物をする人が多いと、何も買わない私はホッとする。

泥人形 カラス貝の養殖真珠 三国城のセット
泥人形 カラス貝の養殖真珠 三国城のセット

 次は太湖へ。琵琶湖の3倍以上の淡水湖だ、こんなに大きくても中国では4番目。写真で見ていた太湖は、小島が浮かび帆掛け船が行き交い、水墨画を見るようだった。でも天気の悪さと寒さは相変わらず。大きな遊覧船に20分ほど乗ったが、もやっとした景色と風の冷たさだけが身に染みた。

 次は三国城へ。「三国志の城がこんなところにあるのかなあ」と不思議に思ったが、中国中央電視台(日本で言えばNHK)のテレビドラマのために作られたオープンセット。ドラマを見ていない者には、セットなど面白くもなんともない。

 1時間ほどバスに乗って蘇州に着いた。冬の夕暮れは早い。蘇州に入ったころにはすっかり暗くなっていた。オプショナルツアーで運河ナイトクルーズがあったが、ライトアップされた運河を見てもつまらないと思い参加しなかった。

 「蘇州といえば東洋のベニスだもの、明日の昼間に運河めぐりをするのだろう」と決め込んでいたが、実際には翌日は行かなかった。安いツアーだから、何度ショッピングに行こうが、食事がまずかろうが、観光場所が腑に落ちなかろうが、文句は言うまいと決心して旅に来たが、これにはがっかりしてしまった。
                              <蘇州の南亜賓館 泊>   (2011年6月16日 記)

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