南イタリアの旅 2 2006年10月5日(木)-2日目 2時半にナポリのベヴェレッロ港にもどり、バスで1時間ほどのポンペイに向かった。夫はナポリで会議があったときに、私は友人との旅で1994年に来ている。2人とも2度目のポンペイだ。 中学生の時に「ポンペイ最後の日」という映画を見てからというもの、憧れ続けた遺跡である。東京の西洋美術館で1963年に「ポンペイ古代美術展」が開かれたときは、仙台から足を運んだ。ラッシュ時の電車内のように混んでいたが、それでも私は幸せだった。そのときの半券(左)をまだ保存している。 1994年に初めて現地を訪れた時は「とうとう来たか」と感慨深かった。その後1997年に横浜美術館での「ポンペイの壁画展」(左)も見たが、初期の感動とはほど遠かった。 今見るベスビオ山は、なだらかな稜線を持つのどかな山である。しかし、紀元79年8月24日、ベスビオ山は凶暴な牙をむいた。この大噴火で、ポンペイやエルコラーノなど麓の町には、熱い火山灰が降り注いだ。 18世紀に発掘されるまで、1700年もの間、火山灰に埋もれたままだったことが幸いし、タイムカプセルに入っていた街が、丸ごと開けられたようなものだ。発掘は今も続いている。 ポンペイには年間200万人が訪れる。日本人は年間20万人。365で割ると1日で5,500人もの日本人が押しかけていることになる。この日も大勢の日本人に会った。 午前中の嵐のような雨はあがって青空も見えるが、ベスビオ山は雲で覆われよく見えない。ポンペイ遺跡にベスビオ山がないのは残念だ。写真は1994年に行ったときのもの。 ローマ遺跡は数え切れないほど見ているが、この遺跡はそのどれよりも楽しい。もちろん世界遺産。他のローマ遺跡は、神殿・宮殿・円形劇場・市場・広場が主であって、日常に縁遠い感じがするが、ここの遺跡は当時生活していた人の息づかいまで感じる。
もちろん、神殿なども残っているが、これだけなら珍しくもない。ここには、貴族や庶民の家・69のレストラン、24のパン屋、いくつかの娼婦の館の跡が残っている。貴族の家では、モザイク画を見ることができる。
レストランの説明をしていたガイドのロベルトさんが、「このレストランではトマト料理を出していましたか」と尋ねた。今のイタリア料理にトマトは欠かせないからの質問だ。34人もいるのに誰も答えない。こんなとき、私はいつも場をしらけさせちゃ気の毒だという気分になる。「当時は、イタリアにはトマトはありませんでした」と答えた。「なぜ?」としつこく聞いてくる。「トマトはコロンブスが持ち帰ったんじゃないかしら」と言ったら「そう!そう!」と嬉しそうに投げキス。まったくイタリアの男性は、こんなバアサンにまで投げキスをくれるのだ。 インフラも整備されている。鉛の配管も見つかっているので水道が使われていたことがわかる。車道と歩道も分けて作られていて、車道にはくぼんだ轍が残っている。馬車を停める場所もあった。
城壁からエルコラーノ門を出てしばらく歩くと、「秘儀荘」がある。ディオニソス(ギリシャ神話の酒の神)の秘儀を壁画に描いているので秘儀荘という。今回のツアーではこれを見学することになっていたので、参加したようなものだ。前回はここまで足を延ばしていない。別荘として作られた館である。壁に描かれたフラスコ画の保存状態がいいこと、その鮮やかな赤が「ポンペイの赤」と言われているほどのものであることなどから非常に有名な絵である。壁画のすぐ側までは近寄れないけれど、写真にはきれいに写った。 ポンペイ遺跡をじっくり見るには4〜5時間はかかると言われているが、今回はわずか1時間半。広い遺跡のほんの一部しか見ていないのに、カメオの店で1時間も費やした。見学時間に比し、買い物時間が多すぎるが、そういう旅行会社を選んだ私が悪いからあきらめる。(2007年9月23日 記) |