中国シルクロードの旅 2
敦煌と鳴砂山 

4月20日(水)―3日目

 敦煌は、甘粛省の西端にあるゴビ砂漠のオアシス都市。人口は18万人。観光前に、ホテル付近を散策したが、北京にくらべ、人も車も自転車も格段に少ない(左)。ときどき馬車も通る。公園で太極拳をやっていたので、入れてもらった。

敦煌のガイドは、ボーイッシュな感じがする中年女性の張玉容さん。敦煌滞在は1日だけだ。張さんが「敦煌が1日では少なすぎます。見るところがたくさんあるのに・・」と残念がっていたが、今日の夕方にはウルムチへ出発する。

 今日からスルーガイドの張天正さんが加わった。西安から敦煌まで列車で来たという。乗車時間は24時間を超えるが「色々な人と話も出来るし、飛行機よりいい」と嬉しそうだった。彼は40歳だが、結婚したばかり。奥さんは、年上の国語の先生。中国でも晩婚化が進んでいるのかもしれない。

 郊外の鳴砂山へ向かった。バスの中で張玉容さんは、敦煌について語ってくれた。いちばん印象的な話は、敦煌の冬の寒さだ。砂漠は灼熱だと思いがちだが、日中の最高気温がマイナスになる日が多いという。だから冬の間は、観光はもちろん、農業もやれない。

観光と並ぶ主産業は、農業である。砂漠で農業が可能なのかとこれまた不思議だが、山の雪解け水が豊富なので、水には困らない。梨・あんず・すいか・桃がとれる。乾燥に強い綿花の収穫も多い。

鳴砂山(右)は、強風に舞う砂の音が、管弦や太鼓のように響くからの命名だ。夏は、暑さを避けて夕方に訪ねるらしいが、今回は午前中。砂山の日向と日陰のコントラストは、昼間ならではの光景だが、鳴砂山に出る月も鑑賞してみたいものだ。

 単なる砂山のように思えるが、入場料も取られる。入口から鳴砂山の麓までの15分間の道のりをラクダに乗った(左)。

 エジプトとチュニジアで乗ったラクダは、ひと瘤だったが、ここのは、ふた瘤だ。パミール高原以東は、ふた瘤だと聞いたことがある。ふた瘤の方が乗りやすいと思っていたが、両方とも快適ではなかった。


 ラクダから降りて、鳴砂山の頂上に登った。階段がついているので滑って困ることはないのだが、階段設置料なのか、別にお金を取られた。

三日月形の泉・月牙泉は、麓からは月の形に見えなかったが、頂上から見ると、たしかに三日月の泉(左)だ。2000年前から湧いているが、次第に小さくなっているという。水は、わずかしかなかった。

 鳴砂山を後にして、ホテルに戻った。シャワーをあびるほど砂まみれになっていないが、ホテルでシャワータイム。昼食は市内レストラン。民族楽器の演奏で迎えてくれた。

 

 午後は、鳴砂山の東端にある莫高窟へ。莫高窟だけに数日間を費やすツアーもあるが、今回は半日だけの観光だ。でも、専門ガイドの説明が良かったうえに、シーズンオフで空いていたので、満足の出来る半日になった。

 中国の3大石窟のひとつ莫高窟は、規模といい芸術的価値といい、他の2つ(龍門石窟<洛陽>・雲崗石窟<大同>)より抜きんでている。龍門石窟を見学したことがある。目玉である廬舎那大仏(右)も、他の仏像と同じく、崖にむきだし。痛まないかと心配になるが、おかげで写真もこうして撮れる。敦煌の仏像は、外側からは一切見えず、みな窟の中に入っている。もちろん写真撮影は禁止だった。

茶色の世界一色だと思いこんでいたが、ポプラの緑がまぶしいぐらいだ。芽を出したばかりだから、輝いている。幹の白(左)は、茶色の中にあって実にきれいだった。

 敦煌が世に知られるようになったのは、100年前にすぎない。1900年に王という道士が、壁に塗り込まれた小部屋からおびただしい古文書を発見したことにはじまる。

 その古文書はイギリスのスタインや、フランスのペリオによって、二束三文で持ち出されてしまった。今では、13ヶ国に5万点の文書が保存されている。大英博には1万点もある。

 まず陳列館でレプリカ(275、285、220)を見学。ここから専門の学芸員・宋さんがガイドについた。奈良で研修したこともあるベテランの女性学芸員である。レプリカとは言え、高松塚古墳の陳列館のように、窟ごと復元しているので、これで充分だ。

 この陳列館(左)も日本の援助で作ったそうだ。ここでも、ガイドが感謝の言葉を発した。本当に感謝の気持ちがあるなら、中国人民にもっと宣伝して欲しい。反日感情がうずまいている今だからこそ、日本人の観光客におべっかを使うより、自分の同胞にPRすべきだ。

陳列館の2階には、莫高窟とは関係ないチベットのブロンズ像がたくさん飾ってあった。素人目にも品格のある仏像のように思えた。「どうしてチベットの像が、こんな所にあるのですか」。単に不思議だから聞いたのだが、宋さんはちょっと口ごもった末に「文化革命のときに、毛沢東バッジを作るために、チベットのポタラ宮から持ち出したのです」。いざ溶かそうというときに、学者から反対の声があがり、事なきを得た。文革後10年以上経過しているのに、チベットに返還せず、敦煌にあるのはおかしなものだ。(2006年2月2日 記)

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