中国シルクロードの旅 3 2005年4月20日(水)−3日目 いよいよ本物の莫高窟の見学だ。右のような窟が延々と続いている。混み合っている時は、窟に入るにも、外で待たねばならない。夏に外で待っていると、太陽の日差しで参ってしまうこともあるそうだ。ただし、窟の中は、ヒンヤリしている。今回は、シーズンの幕が開いたばかりで、他の団体とかち合うことはなかった。 窟には、番号がついている。私たちが見学したのは、429窟のごく一部、16、17、57、96、130、148、156、159、244、257、324、328の11にすぎない。 「敦煌といえば飛天」と言われるが、莫高窟の前庭に、飛天の像が踊っていた(左)。 井上靖の小説「敦煌」には、西夏侵攻から守るために、文書や美術品を洞に運び込む場面がある。17窟が、舞台になっている。 96窟は、莫高窟のシンボルにもなっている九層楼(左)がある窟。中には、35.5bの大きな弥勒菩薩が中に入っている。あまりに高いので、菩薩の顔などよくわからないし、首も疲れる。 57と156と159は、特別窟だ。通常料金ではなく、特別料金を支払わねばならない。ツアー代金に組み込まれているから、特別料金がいかほどのものか知らない。 57窟は、初唐のもの。莫高窟の中でいちばん美しい「菩薩図」が有名だ。色白の肌、ほほえんだ口元、目も優しい。売店では、この菩薩像の絵をたくさん売っていた。撮影禁止なので、右はパンフレットのコピーである。 156窟は、晩唐のもの。前室の北壁には、有名な「莫高窟記」の墨書銘がある。主室の南壁には、「張議潮出行図」、北壁には「宋酷夫人出行図」が描かれている。史実に基づいた壁画だけに、なおさら興味深い。張議潮は、河西一帯を吐蕃(チベット)の支配から解放した名将である。 壁画の美術史的価値は高いが、煤で汚れている。ロシア革命で逃げてきたロシア人が、まぎれこんで生活していたからだ。当時は、きちんと管理されていないので、こういう例はたくさんあったようだ。こんな所でロシア革命の話を聞くのは、スリルがある。 159窟は中唐のもの。チベット族(吐蕃)が、敦煌を支配した頃に作られた。チベットの王がひときわ大きく描かれている。吐蕃の服装や王族の生活がわかり、興味深い。 次は、じゅうたん工場でショッピング。最近はE社のツアーを使うことが多かったので、ショッピングの店には寄らないが、H社はツアー料金が安いので、ショッピングは毎日組み込まれている。何度も中国に来ている人が多いので、絨毯など見向きもしないが、大勢の店員が近寄ってきて売り込みが熱心だ。人件費が安くて人が余っているので、こういう商売も成り立つらしい。じゅうたんの図柄(左)も莫高窟。 昨日泊まったホテルの敷地内にあるレストランで、鍋料理の夕食。野菜が豊富。中国料理は野菜が多いので、どれもおいしい。食べ過ぎに注意せねばならない。 飛行機の出発までの間、レストランから近い沙州市場をぶらついた。非常に混みあうという夜には間があったが、活気があって楽しい。食べ物、雑貨品、洋服などたくさん並んでいる。折りたたみのハサミを欲しかったので買った。その後に気づいたのだが、空港の手荷物検査で刃物は没収される。急いでホテルに戻り、スーツケースの中に入れた。 敦煌発(22時50分)→ウルムチ着(24時10分)。本来は1時間早く敦煌を出発する予定だったが、昨日に続き、飛行機が遅れた。そして昨日と同じように、夜中に飛行機の乗り降りをしている。こんなに強行軍でも、あきらかに70歳代と思われる方も、お元気だ。 ウルムチと北京の経度の差はおよそ30度だから、南中時刻は2時間も違う。にもかかわらず、中国全土で北京時間を使っているので、西域の人には実体とかけ離れている。ウルムチ到着が24時でも、新彊時間では夜の10時、非常識な時刻ではないのだ。<ウルムチの新彊大酒店泊>(2006年2月16日 記) |