中国シルクロードの旅 4
トルファンと高昌故城

4月21日(木)―4日目

 今日から、新彊ウイグル自治区の旅が始まる。現地ガイドは、男性の魏文選さん。日本語が聞きづらいのは難点だが、皮肉まじりのユーモラスな説明に、好感を持った人が多かった。

ウルムチは、新彊ウイグル自治区の政治・経済の中心地。人口230万の大都市である。漢族・ウイグル族・カザフ族・モンゴル族・回族など13の民族が暮らしている。経済の発展に伴い、漢族の割合が多くなり、今や74%が漢族だ。

ウルムチは、どの海岸線からも2300q以上離れている。世界広しと言えど、こんなに海から離れている都市はないという。一般的には、大都市は海沿いにある。ところが、もっとも内陸にあるというウルムチは、予想に反し大都市だ。近代的な高層ビル(右)がそびえ、車の往来も賑やかだ。勝手に思い描いていた西域のオアシスの雰囲気はない。

魏さんが強調したのは、冬の寒さ。−27度になる日もあるという。11月末から4月15日までは雪の季節。訪れた時は、雪の季節が終わり、まばゆい春を迎えようとしていた。もっとも魏さんによれば、ウルムチには春と秋はない。寒いか暑いかのどちらか。中国で最も寒く、最も暑い都市だという。

今日は、ウルムチの東183qにあるトルファン付近の観光だ。車窓から、オランダの指導で出来た風力発電所の設備が見えた。暑さ寒さが厳しいだけでなく、風も強いということだ。塩湖が近いからか、塩工場もある。塩を積み重ねた白い山や、石炭の黒い山もある。緑の山だけがない。

トルファンは、海抜−154bにある盆地で中国でもっとも低い地である。海より154bも低いと聞くと、大水でも流れ込んできそうな気がするが、低地にいるという実感はなかった。海から離れているうえに、年間雨量が20oの地だから、水の心配はないわけだ。

 この3ヶ月前に訪れたヨルダンの死海は、海抜−400b。900bの高地から一気に下りたので、気温の上昇まではっきり感じたものだが、トルファンの場合は、何も感じなかった。

 古くはシルクロードの天山南路と天山北路の要衝の地で、今も鉄道の南彊線と蘭新線の分岐点。人口16万人のうち、ウイグル族が70%も占める。

「火焔山」の側を通ったが、「ここはきれいに見えない。他の所で停める」と、通り過ぎてしまった。右は車窓からの火焔山。

 インドに向かう玄奘一行は、燃えさかる火焔山に行く手をさえぎられた。火を消すために孫悟空が芭蕉扇を手にいれた話は「西遊記」のハイライトのひとつだ。「西遊記」は日本でも非常に人気があり、今もテレビ放映している。小説とはいえ、ゆかりの地を素通りしたのは残念だった。

バスは高昌故城に着いた。この地は、漢の武帝のときに砦を築いたことにはじまるが、5〜7世紀に高昌国が繁栄を極めた。唐の直接支配後に、ウイグル族が西ウイグル王国を建国。およそ1000年にわたり、西域の中心になり、国際都市として栄えたところだ。

 かつての国際都市だけあり、総面積は200万uもあるというが、遺跡の損壊が激しいので、荒涼感が増すばかりだ。

 入口から故城まではかなりの距離があるので、ロバ車(左)に乗った。ネックレスや絵はがきを売ろうとする高校生の女の子が、乗り込んできたが、御者は注意するでもない。「お金を貯めていつか日本に行きたい」など、上手な日本語で話しかけるが、誰も買わない。旅慣れた人が多いからか、同情で買う人は、そうそうはいないのだ。

風化した茶色の建物(左)から、当時の繁栄ぶりを想像するのは難しいが、玄奘三蔵が滞在した部屋(右上)は残っている。

 628年に、2ヶ月間もこの部屋で説法をしたという。玄奘一行は、天山北路を進むつもりだったが、高昌国王のたっての願いで、天山南路を進み、ここに立ち寄ることになった。熱心な仏教徒だった国王は、長期滞在を願ったが、インドに行きたい玄奘は断った。国王は、たくさんの金銀を持たせて送り出したそうだ。

トルファンの人々の顔は、あきらかに漢民族とは違う。

 馬車の御者、遺跡で遊んでいる子ども達、バザールの店員(右)、母子連れ(左)、みな彫りが深くて目がくりっとしている。

次の目的地・千仏洞に向かう途中で「ここの火焔山の方がきれいだから、写真ストップします」となった。

火焔山
は東西100b、南北10qにもわたる山地だから、ここも火焔山の一部と言えるが、炎のような山肌ではない。でも赤い岩肌(左)は、燃えさかる火を連想させなくもなかった。(2006年3月2日 記)

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