中国シルクロードの旅 7 4月23日(土)−6日目 今日はカシュガル市内を見物する。新彊ウイグル自治区の東に位置するウルムチは、漢民族が多くなり、他の中国の都市とさして変わりはない。しかし、西に位置するカシュガル(シルクロードの旅1の地図参照)は、ここが中国だということを忘れそうな都市だ。 住民のほとんどがウイグル族のイスラム教徒だけに、看板は、漢字とアラビア文字が併記されている。はじめて中国を訪れた時に、チョコレートの箱に、簡略漢字以外に、アラビア文字が書いてあり不思議に思ったが、今回の旅で謎が解けた。 まずアバク・ホージャの墓(左)に行った。イスラム教白帽派の有名な指導者であるアバク・ホージャとその家族(5代72人)の陵墓。乾隆帝の寵愛を受けた一族の香妃が、葬られていることから、香妃墓とも言われる。「北京からここまで遺体を運ぶ筈がないから、遺骨はないだろう」と、ガイドのアブドさんは、つぶやいた。 創建は1670年、1874年の大規模な修復で、中央アジア式イスラム陵墓になった。緑のタイルの円形屋根、4隅に建つ尖塔のモザイクは、イランで見たのと同じように華麗だ。 エイティガール寺院に行く途中、職人街をゆっくり歩いた。職人街とついてあるだけあり、単なる商店街ではない。職人が、金物、木工製品、帽子、楽器、衣類などを実際にその場で作っている。 ここがいちばんイスラムを感じる場所だった。写真撮影は構わないと聞いたので、断らずに、写真をごく近くから撮ることができた。男性はみなウイグル帽をかぶり、顔をベールで隠した女性もチラホラいる。ベールは茶色だ。黒や白のベールは、あちこちで見たが、茶色ははじめてだ。ぶらついているのは、圧倒的に男性が多い。女性が強いと言われる中国だが、やはりここはイスラム社会の掟があるのだろうか。
エイティガール寺院は、西域最大のイスラム寺院である。1422年に創建。ここも、イランで見た寺院とよく似ている。イランのハタミ元大統領も訪れたことがあるそうだ。金曜の礼拝には、男性信者が5000人ほど集まり、祭りの時には、5万人が道路まで埋め尽くすという。今日は、土曜日。祈る人が訪れている様子はなかった。ラマダンの断食も、信者の70%は忠実に実行するそうだ。 カシュガル滞在は2日間だったが、滞在中にアザーンが聞こえてくることもなければ、祈る人を見かけなかっただけに、アブドさんの説明を聞かなければ、熱心な信者がいることは、知り得なかった。 「次はきれいなトイレがある所に行きます」とアブドさんが言うのでどこかしらと期待を持ったが、ショッピングセンターだった。買う物がないので、街並みを眺めていた。野菜を積んだ荷車を引くおじさんもいれば、馬車も頻繁に通る。ここでは、馬車がマイカーなのだ。 その後は、バザールに向かった。バザールもイスラムの国を何度も訪れるうちに、感動も薄れてくる。アブドさんが連れていってくれた店(左)でナッツ類を買った。 平均月収が2万円以下のカシュガルのバザールにしては、すべてが高い。「デパートの方がもっと安かった」とIさんが言う。スルーガイドの張さんに「バザールの方が高いなんて変じゃない?」と言ったら「彼らは人を見ますからね。現地の人には、安く売りますよ」という答えが返ってきた。張さんは、ガイドでいながら、こんなことを臆面もなく口にするが、人柄は憎めない。 昼食は、市内の民家・マイマイティ家で。カシュガルで私がもっとも印象に残っている風景は、まっすぐ伸びたポプラ並木だが、マイマイティ家も、ポプラで囲まれた素晴らしいロケーション(右)にある。 昼食後、カシュガル駅に向かったときに、車窓から毛沢東の像(左)が見えた。毛沢東像は、成都・長春・長沙・カシュガルの4個所しかないという。北京にさえ、毛沢東の銅像はないのに、なぜこんな辺境の地にあるのか。 「ガイドなのに、わからないもないだろう」と少し憤慨したが、後で考えてみると、彼は正直に言えなかったのだ。新彊は、以前から毛沢東に対する忠誠心はなかった。チベット自治区と同様に、新彊ウイグル自治区は、自治区の名が示すように、漢民族が多くを占める他の地区とは違う。宗教も違う。北京語を話せない人も大勢いる。そうでなくても、中央への忠誠心が疑われる地区ゆえに、毛沢東の像を破壊せずに置くことで、バランスをとっているのだった。いつ密告されるかわからないのが、中国だという。アブドさんが、正直な気持ちを私に話す道理などないのだった。 南彊鉄道のそれは、その時よりずっとマシだった。私達はT夫妻と一緒のコンパートメントだった。Tさんが妹の家の近くに住んでいることがわかり、ローカルな話題や趣味の凧の話などで、楽しい時間を過ごした。コンパートメントは、鍵がかかる密室なので、見知らぬ外国人と一緒だったら、恐いこともあるかもしれない。 車窓から見えるのは不毛な土地ばかり。シルクロードのど真ん中にいるという旅情が沸いてくる。夕食は、列車内の食堂でとった。(2006年4月16日 記) |