中国シルクロードの旅 8
クチャとタクラマカン砂漠

2005年4月24日(日)−7日目

右は、カシュガルからクチャまでの鉄道切符。「空調が効いていて、速くて上等な座席」ということが、読み取れる。漢字文化は有り難いものだ。

 クチャ駅に着いたのは、真夜中の1時40分。寝台車なので横にはなっていたが、ほとんど眠れなかった。後で聞いたところ、南彊鉄道の景色が素晴らしいのは、クチャからウルムチまでの沿線だという。私達はその間を飛行機で移動するのだ。なんとも味気ない。

駅には、クチャのガイド・宋丹丹さんが待っていた。宋さんは24歳の満族の女性。パンダの名前みたいで可愛い。中国北東部(日本が満州と呼んでいた地方)の大学を出て、両親もそこに住んでいる。「恋人がコルラで働いているので、クチャでガイドの仕事を見つけました」と、明るく話す。クチャとコルラは300キロぐらい離れている。クチャと中国北東部は、もっともっと離れている。近い所に仕事がなかったのかなあ。

クチャのホテルで仮眠をとった後、朝から観光だ。クチャは、綿花と石炭が主産業。日照時間は夏が16時間、冬でも10時間もある。雨が降らないので、天山山脈の雪解け水を使っている。

市内からおよそ200キロのタクラマカン砂漠へ向かった。クチャからニヤまでは、砂漠公路(右)という立派な道路が通っている。

 シルクロードには、道なき道を行く駱駝隊のイメージがある。タクラマカン砂漠に行ったというと、この姿を思い浮かべる方がいるかもしれない。でも、ツアーでは、舗装道路をバスで通り抜けるに過ぎない。

 感動にはほど遠いが、砂漠の雰囲気を手軽に味わうには、これで充分だ。

砂漠公路の入口に、大きな看板があった。「砂漠の海が石油の海に変わる」。中国は、スローガンが大好きだが、実際に、政府はこの付近に多くの労働者を送り込み、石油を掘っている。石油の海になる夢は叶うのだろうか。

砂漠公路をしばらく走ると、胡楊林(左)があった。紅柳(タマリスク)や胡楊の木が生えているオアシスだ。オアシスと言うと、ヤシの木を思い浮かべるが、タクラマカンのオアシスには胡楊が茂っている。ポプラも乾燥に強いが、胡楊も乾燥に強いそうだ。

ちなみに、「胡」は、西から来たものという意味で、胡人、胡麻(ゴマ)、胡桃(クルミ)、胡瓜(キュウリ)など、シルクロードには、胡のつくものが多い。 


 胡楊林を抜けると、タリム川に出る。砂漠に川が流れていることなど思いもしなかったが、2197bもある長い川だ。

 川を過ぎた砂漠(左)で、しばし休憩。Tさんが、日本から持参した手作り凧を、揚げた。Tさんは「日本の凧の会」の世話役。海外や国内で、凧による交流をしている。

砂漠のレストランで、拌面(ラグメン)とシシカバブの昼食。焼きたての羊(右)のシシカバブは、とてもおいしかった。帰国後にラム肉を同じように焼いてみたが、この時の味とは、遠かった。


 同じ道をクチャに戻り、ホテルで少し休憩。郊外のクズルガハ烽火台と、クズルガハ千仏洞に向かった。

 クチャは、古くは亀茲国(きじこく)が栄えた地で、前漢に登場したオアシス国家。後漢の時に西域都護府、唐の時代には安西都護府が置かれ、10世紀頃まで繁栄した。

 三蔵法師もインドに向かう途中で、この地に立ち寄っている。今のクチャはイスラム教の町だが、仏教遺跡が観光の目玉になっている。

まず、クズルガハ烽火台(左)へ。高さ13bの烽火台が残っている。狼煙や松明を使ったという。何もない茶色の世界に、門番として、住み込んでいるお年寄りがいた。家族は逃げてしまったというが、無理もないなと思う場所にある。

 次のクズルガハ千仏洞(左)は、塩水渓谷の岸壁にある仏像の石窟群。きびしい環境を感じていただけるだろうか。

 漢から唐にかけて47の石窟が作られた。13世紀のイスラム教と仏教の戦いで、破壊されてしまい、かろうじて見物できるのは、11・14・16・27・30・31の6つだけだ。敦煌ほど保存は良くないが、それはそれで、ここがそういう立場にあったことがわかり、興味深iい。<クチャの庫車飯店 泊>  
(2006年5月2日 記)



感想・要望をどうぞ→
中国シルクロードの旅 1へ
次(キジル千仏洞と楼蘭の美女)へ
ホームへ