中国シルクロードの旅 9
キジル千仏洞と楼蘭の美女

2005年4月25日(月)−8日目

 午前中はクチャ近郊の観光で、ガイドはきのうと同じ、宋丹丹(右)さん。日本に電話をかけた同行者が、尼崎の脱線事故の一報を教えてくれた。この時は、犠牲者が107人にもなる大事故だとは知るよしもなかった。

 観光の目玉は、キジル千仏洞だが、まず塩水渓谷(左)で下車。渓谷を流れる川には、ほとんど水がなく、結晶した塩が白っぽい景観を作っている。

 クチャ周辺には、昨日見学したクズルガハ千仏洞と、これから見学するキジル千仏洞以外に千仏洞が無数にある。いずれも亀茲国(きじこく)時代の貴重な仏教遺跡。これらを見ると、亀茲国がどんなに仏教を大事にしていたか、どんなに栄えていたかが分かる。

 かつての仏教王国の子孫達は、仏教を信じていない。でもご先祖様の遺産があるから、観光客が来る。そして土産物などで生計を立てている人も多いのだ。

千仏洞を背にして、鳩摩羅什(クマラジュー)の銅像(右)があった。鳩摩羅汁(344〜413)の父はインド人、母は亀茲国王の妹。法華経などの仏典を漢訳した功労者だが、玄奘(600〜664)より、200年以上前の僧なので、ふたりは会っていない。

 キジル千仏洞には、後漢から宋にかけて作られた石窟が、237もあるという。でも比較的保存状態がいいのは、わずか70余。その中で一般に開放しているのは、ごく一部。

 見学したのは、8、10、17、15、4,27、32、34。ここもイスラム教徒によって破壊されたので、敦煌の壁画とは比ぶべくもないが、当時の見事さは伝わってくる。写真撮影は禁止。信用していないのか、入口でカメラを預けさせられた。

 クチャ市内で昼食後、飛行機に乗るまでの時間を利用して、スーパーマーケットに行った。砂漠の都市とはいえ、38万人が住む。品揃えは豊富だった。

クチャ空港(2時50分発)→ウルムチ空港 (3時50分着)。31人乗りの小さな飛行機でウルムチまで移動した。仲間が25人、スルーガイド1人、添乗員が1人だから、我々のグループだけの貸し切りだ。

 空港には、21日にウルムチを案内してくれたガイド・魏さんが待っていた。満面の笑みで出迎えてくれたので、思わずこちらも笑顔で手を振った。

 気温は13度で、雨も降っているので寒いぐらいだ。ウルムチで雨が降ることはめったにないので、ウルムチ住民は喜んでいるらしい。旅行中で初めての雨だから、「雨で残念ね」とは、誰も言わなかった。おしめりが心地よい。

 砂漠とオアシス都市で4日間を過ごしたこともあり、ウルムチの高層ビルに、再び目を見張った。左の写真の3階には「PARKSON 百盛」、2階には「KFC 背徳基」の字が見える。ケンタッキーは、こんな内陸部にも進出している。

 まず新彊ウイグル自治区博物館見学。所蔵品は5万点を越えるが、改装中だったので、プレハブ小屋みたいな古屍陳列室だけを見学した。言うまでもなく、古屍はミイラのこと。

 エジプト・カイロの博物館では、ミイラは特別料金をとるほどの金蔓だが、ここでも古屍陳列室は大人気。カイロではラムセス2世など有名ファラオが目の前にいるので驚いてしまったが、ここでも、目と鼻の先にミイラが横たわっていた。

前館長はミイラを勝手に香港に売ってしまった。死刑になるはずだったが、無期懲役になった。258もあるのだから、ひとつぐらい売ってもわかりゃしないと思ったのだろうが、博物館の館長がやることとは思えない。大金をつかまされたのだろう。いかにも中国らしい話だと納得した。

博物館の許さんが、早口だが、ひとつひとつ説明してくれた。新彊は乾燥した砂漠地帯なので、保存状態が非常に良い。4000年前のミイラ以外に、漢や唐時代のわりと新しいものもある。

20体ほどのミイラを間近に見たが、数日前に亡くなったと思えるような男性ミイラもあった。髭も鼻の高さもそのまま。つまり肉が残っているのだ。3000年前のミイラだという。

人気があるのは、日本にも来たことがある「楼蘭の美女」。私はこの時1992年に東京で会っているので、久しぶりの対面だ。

 45歳で亡くなった4000年前の女性。半券(左)の写真を見ると、髪の毛や帽子、ポシェット、衣装の一部が残っていることがおわかりだろう。

 帽子に鷹の羽ついていることから貴族だということがわかる。縦糸と横糸に織られた衣服も豪華だ。鼻が高く、ヨーロッパ人種。DNA鑑定で、人種も血液型もわかる。死んだ年齢も、死因もわかるというから、現代科学には恐れ入る。

 ミイラと副葬品などの説明が終わると、許さんは、立派なケースに収められた陶磁器の説明を、始めた。「これは○○時代のもの。これは・・」。そして最後に、「みなさまに特別、ケース毎お譲りします。国宝級のものもありますから、大変お得です」ときた。熱心に説明してくれる学芸員だと思ったが、学芸員ではなく商人かもしれない。みんなアゼンとしてしまった。

国宝の筈がない。それこそ死刑ものだ。それをぬけぬけと博物館の中で話す不思議。やっぱり中国なのだ・・とまたもや納得してしまった。(2006年5月16日 記)

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