スイスの旅5
 ベルンとユングフラウ展望台

2009年7月17日(金)-9日目

今日は一日中雨降り。日程が一日ずれたら、昨日のマッターホルンの感激は味わえなかった。ツアーでは天気よりも日程が優先だから、ひとたび天候がくずれるとどうしようもない。長期滞在して「明日は天気が良さそうだから山に登ろう。今日は天気が悪いから本でも読むか」、そんな旅をしたいものである。

トウーン湖 ツエルマットにはバスや乗用車を乗り入れさせないので、今日の移動はとても面倒だ。登山列車で移動後、カートレインにバスごと乗り込んだ。8時にホテルを出発したのに、バスが道路上を走り始めたのは10時40分になっていた。排ガス対策以外に、渋滞を避ける意味もあるのだろう。

バスが最初に止まったのはトウーン湖(左)。天気さえ良ければ、アイガー・メンヒ・ユングフラウが見えるというが、空も湖もどんよりしたままだった。

ベルンスイスの旅1の地図参照)のレストランで昼食後、2時間弱の市内観光。ガイドは日本人のしのぶさん。ベルンはスイスの首都だが、人口は13万人にすぎない。スイス最大の市はチューリッヒだが、ベルンが国の中心にあることやチューリッヒに権力が集中しないようにという理由で、1848年から首都になったという。

 スイスの大きな市は、それぞれ自慢できる施設を持っている。チューリッヒは国立博物館、ルツエルンは保険裁判所、ローザンヌは最高裁判所、ジュネーブはヨーロッパの国連本部。ひるがえって、日本はどうだろう。あらゆる機関が東京に集中し、地方は疲弊している。

永世中立を守ってきた国の首都だけに、ベルンは中世の姿を今に伝えている。見学の頃は雨が降ったりやんだりだったが、しのぶさんは「アーケードがあるから雨が降っても大丈夫」という。

 よく見ると中世のアーケードは石造りで立派だ。食人鬼の噴水・熊の噴水・肉屋の噴水・モーゼの噴水などデザインとネーミングが凝っている噴水があちこちにある。ヨーロッパには必ずある大聖堂は、スイスでいちばん高いゴシック様式。  

アインシュタインの家 時計塔 ベルン市内
アインシュタインが新婚時代に住んだ家は博物館になっている。 1218年製の時計塔は現役だ。 スイスで一番高い大聖堂が目立つベルン市内。

チューリッヒ大学を卒業したアインシュタインが新婚時代に住んだ家が残っている。特許局勤務のかたわら、特殊相対性理論などの論文を執筆した場所でもある。中を見学する時間はなかったが、ずっと後に来日したアインシュタインと少し関わりがあった母から、さんざん彼の話を聞いていたので、外見だけでも良かった。

 1218年に作られた時計塔は、まだ現役だ。毎時4分前から動く仕掛けを15時ちょっと前から見学。プラハの天文時計も2度見学したことがあるが、どちらが古いのだろう。

中心地の徒歩観光後は、バスで熊公園へ。ベルンの名前はドイツ語の熊から来ているほど、ベルンと熊は関係深いが、それにしてはちゃちな熊公園。今は1頭もいない。ここで横殴りの雨が降ってきて、もし熊がいたとしてもゆっくり見学する気分にはならないが、ツアー会社は日程表にある見学地を省くことは許されない。

 熊公園から坂道を上がった所にバラ園がある。バラは見頃を過ぎていてたいしたことがないが、雨とはいえ市内の眺めがよかった。アーレ川を囲む旧市街は、オレンジ色の瓦屋根が見事に統一されていて、見てきたばかりの大聖堂の尖塔が目立つ。

バスはラウターブルネンという登山列車の駅へ。ここから今日の宿泊地ウェンゲン村までは登山列車で移動。やはりここも車を乗り入れさせない。駅からホテルまでは雨の中を5分ぐらい歩いた。こんな風に1日中降っていたのは今回の旅で初めてだ。

 近所に住むスイス人のマリアンナさんは「今年のスイスは雨降りが多いと妹が言ってきた。マッターホルンが見えたなんてラッキーよ」とのこと。今日はいわば移動日だから降っても仕方ないか。その代わり明日は是非とも晴れて欲しい。

夕食はフォンデユシノワーズ。牛肉のしゃぶしゃぶ風だが、日本のしゃぶしゃぶの方がはるかに美味。23前にスイスに行ったときに、フォンデユは鍋物という意味だと知った。フォンデユといえばチーズフォンデユしか知らなかった頃のこと。<ウェンゲンのサンスターホテル泊>

7月18日(土)-10日目

新田次郎昨日に続き今日も雨。祈りは通じなかったとみえる。ウェンゲン(1274b)からクライネシャイデック(2061b)へ登山電車で向かった。25年前にクライネシャイデックの花畑に寝ころんで、アイガー北壁を眺めた。晴れていればアイガーが目の前に聳えているのだ。

 次の列車まで時間があったので、新田次郎の記念碑(左)を見に行った。妻の藤原ていさんが山をいつも見られるようにと、眼鏡などを埋めたという。遺骨を入れるよりいいかもしれない。私は新田次郎の小説でアルプスの山の名前を覚えたぐらいだから、この記念碑は嬉しかった。

マッターホルンやグランドジョラスの北壁登頂後も、アイガーの北壁は征服されなかった。ハインリッヒ・ハラーというオーストリア人が1938年に初登頂。ハラーはナチスドイツの招きでヒマラヤに遠征、インドでイギリス軍の捕虜になるが脱走。逃避行の途中のチベットで、少年だったダライラマに会う。ブラッドピット主演の「セブンイヤーズインチベットは」は、このハラーをモデルにしている。

1969年に日本人の加藤滝男さんや今井通子さんのグループも新ルートで成功している。タイトルは忘れたが新田次郎の小説に詳しい描写がある。

 マッターホルン北壁登頂で触れた長谷川恒夫さんも1978年に真冬の北壁登頂に成功。彼はグランジョラス北壁も成功している。山の世界では、3大北壁の冬季単独登頂をした長谷川さんはよく知られている。隣の息子の葬式で話を交わしたことがあるが、こんな偉業を成し遂げたとは思えない木訥な穏和な感じの人だった。そんな彼も、1991年にパキスタンの未踏峰を登山中に遭難。44歳だった。

雪

クライネシャイデックまでは雨だったが、ユングフラウヨッホまでの登山列車が出発したとたん、雪景色(左)になった。途中のアイガーヴァント駅(2865b)とアイスメーア駅(3160b)で5分ずつ停車。ガラス越しの窓から外を見るようになっているが、今日は真っ白。何も見えない。

 クライネシャイデックから終点のユングフラウヨッホ駅までの登山電車は、アイガーの岩盤と凍土をくりぬいたトンネルの中を走る。16年かかって1912年に開通。アイガー北壁の初登頂より26年も前のことで、そろそろ100年になる。

 ロープウェイやゴンドラならまだしも、当時はまだ珍しかった電気を使った登山列車を通したことに驚く。トンネルが多いので蒸気機関車では煙がこもってしまうと、100年前に考えた人がいたのだ。

ユングフラウ展望台(3454b)に着いたとて天気が良くなるはずもなく、何も見えないどころか吹雪いていた。温度計はマイナス6.8度を指していた。2時間近く展望台近辺にいたが、最後まで晴れることはなかった。

 前にここに来たときは、雲はあったものの、ユングフラウもメンヒもアイガーも見えた。だから今回見えなくてもそれほどはがっかりしない。2回目もダメだったという人もいるのだから。

ユングフラウ展望台 −6.8度 氷の宮殿
ユングフラウ展望台は吹雪だった。 現在の気温は−6.8。日本語の表示。 氷河内に作られて氷の宮殿。

この時期には珍しく30代の若者が2人いた。「仕事の合間に来てるんですが、がっかりです」「出張だからいいじゃない。私たちのように高い旅費をかけているわけじゃないでしょう」などの話をしながら、2日前のマッターホルンの写真をデジカメの液晶で見せてあげた。違うツアーの人には、自慢写真は見せられないが、仕事がらみの若者なら気が楽だ。「いいなあ」と液晶を見ながら素直に羨ましがってくれた。ここもツエルマットと同じく、日本人の団体で溢れている。

山の眺望は敵わなかったが、氷の宮殿は見応えがあった。25年前の私は、氷河に洞窟を掘ってギャラリーにする発想にいたく感激したものだ。足下がつるつるして歩きにくいが、今回も氷河の中を歩いていることが嬉しくてならなかった。

クライネシャイデックからハイキングをする筈だったが、雪が降り続いている。私は悪天候に供えて準備はしてきたが、添乗員Tさんの判断で中止。日本人のツアーが歩いているところを目撃したが、専門のガイドを雇っているので、中止出来なかったような気がする。北海道のトラムウシの遭難は、ツアー会社に雇われたガイドがいたばかりに強行したのだろう。私たちの旅行会社は経費節減のためか、専門ガイドを雇っていない。
                                            (2011年5月2日 記)

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