スイスの旅


2009年7月9日(木)〜7月22日(水)

ドイツ国境の町とリヒテンシュタイン
ハイジの里・ルツエルン・ウイリアムテル特急
ベルニナ線とサンモリッツ
氷河特急とマッターホルン
ベルンとユングフラウ展望台
ユングフラウ山麓の村からシャモニーへ
モンブランが見える展望台


スイスの旅1
 ドイツ国境の町とリヒテンシュタイン

2009年7月9日木)-1日目

スイスのルート地図 各社のパンフレットを見ていると、スイスは8日間か10日間で回るコースが多い。E社主催のこの旅は、少し長いが日本人があまり行かないドイツ国境近くの町(左)まで行く。名峰と湖以外のスイスにふれることができそうな気がする。

 ルートの都合でリヒテンシュタイン・イタリア・フランスにも、ほんのわずか入国するが、基本的にはスイス1国の旅。

12時(成田発)エアフランスで→16時50分(パリ着) 11時間50分のフライト 18時55分(パリ発)エアフランスで→20時(チューリッヒ着) 

 成田を出てから約16時間で1泊目のホテルに到着。ツアーの人数は22名。このうち7名が1人参加だった。
         <チューリッヒのモーベンピックエアポートホテル泊>

7月10日(金)-2日目

9時にホテルを出発。チューリッヒはスイスでいちばん人口が多く繁栄しているらしいが、市内は素通りでラインの滝へ向かった。

 幅が150b高さが16bのラインの滝は、イグアスやナイアガラの滝に比べ規模は小さい。でもライン川に滝があったために町ができたと知ると、興味がわいてくる。

 私はライン川というとドイツしか思い浮かばないが、源流はスイスのトマーゼ湖。スイス・リヒテンシュタイン・オーストリー・ドイツ・フランスを経てオランダのロッテルダムで北海に注ぐ。1300qの長い川だ。

次にシャフハウゼンという古都を訪れた。この町はラインの滝と深い関係がある。ライン川を通る船が滝のために通れない。一度荷物を陸に揚げたことからこの町が始まった。旧市街は典型的なヨーロッパ中世のたたずまいを残している。石畳、芸術的な木組みやフレスコ画が壁に残る館、出窓に飾られた花、噴水と銅像(ウイリアムテルやムーア人など)がセットになった広場。

ラインの滝 ウイリアムテル シャフハウゼン
船の交通の妨げになったラインの滝。 ウイリアムテルの像。 古都・シャフハウゼンの眺め。

自由時間にブラブラ歩いていたら「シャフハウゼンの町が見渡せる所がある」と中年女性が教えてくれた。ヨーロッパにはこういうお節介な人は少ないが、ここが有名な観光地でないからかもしれない。「急な階段だけど行く価値はある。スローリースローリーにね」と私の顔を見ながら言った。

 スローリーのお言葉を無視してトントンと上がっていったら、円形の建物があった。説明を読むと16世紀に作られた砦。シャフハウゼンの町並み、ライン川が眼下に見えて確かに絶景だった。

昼食は市内レストランで。スープ・チキンのマッシュルームソース・フルーツサラダなど。こんな感じの食事がこれからも続くが、思ったより美味しかった。帰国後に近所に住むスイス人のマリアンナさんに聞いたのだが、「animal protection が徹底しているから、鶏を日本のように狭いゲージで育てることはしない」そうだ。そのせいかどうか、チキンも地鶏の味がした。

昼食後は2時間のライン川クルーズ。城が建ち並んでいるドイツのライン下りと比べ見どころに乏しいが、川辺を楽しんでいる人や鮮やか緑を見ながらライン上りを楽しんだ。このクルーズは、源流に向かっているので、ライン上りという。

 樹木や牧草地に混じって、ところどころにブドウ畑がある。世界遺産のレマン湖に面したラヴー地区のブドウ畑をテレビで観たことがあるが、ライン川に面したこのブドウ畑も壮観だ。

ブドウ畑 シュタイン・アム・マイン シュタイン・アム・マイン
ライン上りで目にしたブドウ畑 ドイツと接しているシュタイン・アム・マインの街並み シュタイン・アム・マインの城門

 シュタイン・アム・ライン(上の地図参照)という町に上陸。ラインの北に出っ張っているためにドイツと間違えられ、第2次世界大戦ではアメリカ軍から攻撃された。今回の旅はスイス1国が目的だが、リヒテンシュタイン・イタリア・フランスの領土にも入った。こんな風に入り組んでいるのだから、どこが敵やら味方やら。こんな悲劇はこれからも起こるような気がする。

 シュタイン・アム・ラインも中世の面影を残す古都。壁に描かれたフレスコ画によって、王冠の家、鹿の家、赤牛の家などの名前が付けられている。 シャフハウゼンに戻り、5時前にホテルに入った。
                                        <シャフハウゼン バーンホフホテル泊>
7月11日(土)-3日目

 ホテルを出発したバスはボーデン湖沿いを走って、ザンクトガレン(上の地図参照)に着いた。ガイドはクリスタルさんという若い女性。7世紀のはじめに、アイルランドの修道士ガルスが修道院を建てたのがこの町の始まりである。ザンクトガレンは聖ガルスからきている。

大聖堂 ザンクトガレン修道院と、隣接する後期バロック様式の大聖堂(左)は世界遺産だ。大聖堂はさほど珍しくもないし、なぜ世界遺産なのかわからない。観光立国スイスにはたくさん世界遺産がありそうに思うが、文化遺産は6つしかなくその1つ。

ここはかつて繊維産業で栄えたが、今は規模が小さくなったという。店先にあるレースは高価で手が出ない。人件費が高いヨーロッパの手作り品が東南アジアの製品と競争できないのは、仕方ないような気がする。

 旧市街にある家の出窓には、ゴテゴテと飾り物がついている。隣同士で富を競い合っているうちに過剰な装飾になったという。

 少しだけ残っている壁は、プロテスタント市民とカトリック修道院をへだてるためのもの。ノンクリスチャンの私は、カトリックとプロテスタントが平和に共存していなかった一時期に馬鹿馬鹿しさを感じてしまうが、当事者には大問題だったのだろう。

 修道院附属図書館の建物は、バロック様式で重厚だ。靴は大きなスリッパで覆わねばならないし、撮影も禁止だった。天井まで連なっている10万冊を越える蔵書には中世の写本やグーテンベルク時代の印刷物など貴重なものもあるらしい。いずれにしても字が読めないから、豚に真珠。

 ザンクトガレンで昼食後、しばらく走るとリヒテンシュタイン公国の首都ファドーツに着いた。

リヒテンシュタインの城 談笑している銅像
高い山の上にあるリヒテンシュタインの城。 街角にはこうした彫刻がたくさんある。

 ヨハン・アダム・アンドレア候が1699年にシェレンブルク領、1712年にファドーツ領を購入して公国の基礎を固めたという。土地を購入して国を作ってしまうのだからたいしたものだ。

 リヒテンシュタインの面積は小豆島ぐらい、人口はたった35,000人。日本では、平成の大合併で小さな市町村は消えているが、それより規模の小さい国が独立している。しかも、1712年から今の規模で存続している。

  街角には、談笑している彫像や馬の彫刻やモダンアートのモニュメントがあり、オシャレな町並みだ。23年前にリヒテンシュタインで昼食を摂ったが、そのときの街並みを思い出せない。すっかり変わったような気がしてならない。(2011年3月2日 記)

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