東西トルコの旅 13
 エフェソス遺跡

2007年5月7日(月)−13日目

エフェソス遺跡の赤いポピー9時半から2時間かけて、エフェソス遺跡トルコの旅1の地図参照)を見学。エフェソスは、トルコ最大の遺跡にもかかわらず、世界遺産には指定されていない。修理個所が多いのかもしれない。左写真の右奥はセルシウス図書館。

 長いことガイドをしているアポさんは、100回以上訪れているはずだが、手抜きせずに丁寧に説明してくれた。8年前のエーゲ海クルーズの時にも立ち寄った。クルーズ船の客が一度に押し寄せたこともあって、ひどい混雑。おまけに8月だったので暑かった記憶だけが鮮明だ。

 15年前は、広い遺跡に数グループがいただけで閑散としていた。その後、たくさんのギリシャ・ローマ遺跡を見ることになったが、このときは初めて。朽ちかけた柱を見てさえ、胸の高まりを覚えたものだ。

 ボスポラス大学を卒業したばかりのガイドは、神話やローマ皇帝の話になると止めを知らなかった。「名前は忘れたけど、金髪で色白でハンサムだった」とアポさんに話したら、「それは、カーンさんだ。彼はいっときアメリカに行っていたけど、今も日本語ガイドをやっているよ」。「会いたいなあ。思い出してくれると思うよ」と私。アポさんは「トルコ人は体型が変わるから、会ったらがっかりするかも」と夢を壊すことを言う。帰国後にアルバムを見たら、やはりカーン青年だった。

 エフェソスの歴史は紀元前11世紀、イオニア人がギリシャの都市国家を作ったことに始まる。紀元前287年ころシリマコス帝のときに港が土砂で埋まってしまったので、今の遺跡の場所に遷都した。紀元前2世紀にローマの属領になった後は、ローマ帝国有数の都市として発展。最盛期は25万人も住んでいた.

 エフェソス遺跡など西トルコについては、親しいメル友さんのタキ爺さんゆかり草さんがたくさんの写真入りで紹介しているので、ごらんいただきたい。

 ローマ帝国内で有数の都市だっただけに、楽しく快適に生活していく上での設備は全部整っていた。近代都市のインフラとさほど差がないことに驚く。

浴場・アゴラ(市場)・公衆トイレ・下水管など日常に欠かせない設備。バジリカ(教会)・ドミティアス神殿・ハドリアヌス神殿・聖火が日夜ともっていたブリタネイオンなど宗教的な設備。エフェソスの人口の1割・25000人が収容できた大劇場・オデオン(小音楽堂)・図書館など文化施設も充実していた。とくにセルシウス図書館は、エジプトのアレキサンドリアと肩を並べるほどの蔵書があった。セルシウスはローマの元老院議員でアジア州の提督の名。彼の息子が墓の上に図書館を建てた。

下水管 メドウーサの像 ゲームの○×
下水管が残っている。 ハドリアヌス神殿アーチにあるメド-サの彫刻。 ゲームに使われたらしい○×マーク
  
 3回のガイドとも、公衆トイレ・ニケの女神・娼婦の館への道しるべについては詳しく説明した。客の反応がいいからだろう。トイレは下に水道が流れる水洗だが、となりの人と話をしながら用を足す。以前の中国のトイレよりは、清潔なぶんマシかもしれない。ギリシャ神話の勝利の女神であるニケ(Nike)は、ギリシャ語ではニケと読むが、英語ではナイキと読む。スポーツ用品のナイキのマークはこの女神のデザインからとった。娼婦の館は、ハドリアヌス神殿のすぐ側にある。日本の江戸時代にも、神田明神のそばに遊郭があった。娼婦の館と神殿が近いのは、ローマばかりではないようだ。

公衆トイレ ナイキの商標 娼婦の館の道しるべ
隣と話しながら用を足す公衆トイレ。左は現地ガイドのアポさん。右はツレアイ。
勝利の女神ニケ。赤い矢印の部分がナイキの標章に使われた。 娼婦の館への道しるべ。足の隣に女性の顔。上にハートマーク。

少しはなれたところにあるアルテミス神殿跡は、「世界の七不思議」と言われた神殿が建っていたところ。直径120a、高さ19bの大理石の円柱が127本使われていたほどの豪華な神殿だった。高さ15bのアルテミス像は、黄金や宝石で覆われていたそうだ。現在は、柱が1本、それも復元されたものが立っているにすぎない。同行のKさんが「今度の旅の最高は、ノアの方舟とこの神殿だね」と皮肉を言った。それほど「なあんだ〜」の七不思議。

殺風景なアルテミス神殿 コウノトリ アルテミス像
柱が1本だけ残っているアルテミス神殿跡 左写真にいるコウノトリを大きく撮影 考古学博物館のアルテミス像。

エフェソス近郊のシリンジェ村で昼食をとった。古びた石畳が残っているこの村は、最近観光に力を入れているようだ。ワインの産地なのでワイン専門店、ほかに革製品、刺繍製品の小さな店が並んでいたが、買いたいものはなかった。

 午後の見学箇所・エフェソス考古学博物館は、エフェソスや周辺の遺跡からの発掘品を2500点も所蔵している。そのうち約1000点を展示している。展示の目玉でもある2体のアルテミス像は、エフェソスのプリタネイオンから出土した。

 アルテミスの女神はアポロンと双生児で生まれたゼウスの娘で、豊穣・多産・生殖の神として信仰された。高さ292センチの大アルテミス像は、アルテミス神殿に置かれていた像の縮小コピー。もうひとつは、美しきアルテミス像と呼ばれる174aの像。胸の前にぶらさがる卵みたいなものは、乳房と言われてきたが、最近では、生け贄にされた牛の睾丸という説が有力だ。

 次は聖母マリアの家に行った。イエスの死後、マリアと聖ヨハネが隠れ住んだ家と言われる。ここアナトリア地方はアルテミス信仰が強く、キリスト教を受け入れる素地はなかった。なのにエルサレムからこんなに離れた地に、マリアが移ってきた理由がわからない。でも、5世紀にはマリア最期の地として認められ、ローマ法王も訪問するほどの聖地になっている。私がとやかく言ってもはじまらない。

黒いマリア像 マリアの家 牧師
マリアの家の外にある黒いマリア像。内部のマリア像も黒い。 マリアの家。内部に祭壇がある。 マリアの家の側にいたキリスト教のフランチェスコ会の修道士。

15年前はマリアの家にある祭壇も撮影することができた。当時のガイド・カーン君は「日本人は写真を撮るとそれで終わり。祈ったり、ゆっくり眺める人はまれですね」と私に言った。「日本人のほとんどは、マリア像も信仰の対象じゃないのよ。祈らなくて当然なの」と私は弁解した。今回は撮影禁止だったので、それは良かった。あくまでも、ここは聖なる場所なのだから。

聖母マリアの家に隣接して、以前はなかった郵便局があった。マリアの家のスタンプを押してくれるというので、絵はがき数枚書いて投函した。

革製品の店に寄ることになった。「ホテルに帰る途中に革製品の店があります。行きたくない人は、ホテルまで送ります」とアポさんが言う。ホテルに送ってもらうことになると、「ドライバーのサイムさんに気の毒」そんな気持ちもあったのか、全員が革製品の店に寄った。若い添乗員には、ベテランガイドのアポさんの言いなりだ。夫は茶色のジャケット、私はリバーシブルのコートを買ってしまった。

今日の夕食は、添乗員が「そうめん」を茹でてくれた。オリーブオイルの多いトルコ料理を毎日食べてきたので、「そうめん足りない〜」と不満が出たほど美味しかった。<エフェソス リッチモンドホテル泊>(2008年11月2日 記)

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