東西トルコの旅14
 ペルガモン遺跡とトロイ遺跡

2007年5月8日(火)−14日目

今日は、エフェソスからトロイ遺跡までエーゲ海沿いを移動する。途中、トルコ3番目の都市イズミールを通った。今回は通過しただけだが、15年前はイズミールに泊まった。スカーフをかぶっていない金髪美人が多く、ヨーロッパの都市のようだった。フォードの大きな工場もある近代都市である。

ホテル出発後3時間半でベルガマトルコの旅1の地図参照)という町に着いた。ギリシャの都市国家だったためか、今でもたくさんのギリシャ系住民が住んでいる。

 まず、ペルガモン遺跡のひとつアクスレピオンを見学。ここは、ゼウスと人間の子のアクスレピウスを祀った医療センターだ。「神話の神と人間が結婚するなんて変だなあ」とチラと思うが、質問すれば馬鹿にされそうなので胸にしまいこんだ。とにかく、アクスレピウスは医学の神である。この遺跡はお定まりの劇場・アゴラ・神殿・・ではなく、医療施設なので面白い。

蛇のレリーフがくっきり残る石柱があった。この蛇のレリーフは、今でもヨーロッパの薬局の看板に使われている。病院で診てもらえないことを悲観した患者が、蛇の毒を飲んで死んだほうがましだと毒蛇を飲んだところ、逆に解毒作用を起こして病気が治ったという。「毒をもって毒を制す」。蛇は医学の象徴になった。

イオニア式の列柱が連なる回廊のコロネードもユニークだ。長さ80bの地下道の回廊は、診療所に続いている。患者はここを通るとき、天井から神のお告げ(実は医者の励まし)を聞いた。天井から医者が「あなたは絶対治るよ」など囁く。暗示をかけられた患者は、どんなにか勇気づけられたことだろう。病院内には3500席と小規模ながら劇場もあった。感動や笑いも治療の一環と考えられたようだ。今の日本の医療とつい比べてしまった。

アクスレピオンの遺跡 蛇のレリーフ 診療所へ続く地下道
アクスレピオンの遺跡 医学の象徴になった蛇のレリーフ 診療所に続く地下道。天井の空いている窓から医者が囁く。

昼食後、330bの小高い丘にあるアクロポリスに向かった。この地は、アレキサンダーの死後、部下のシリマコスが支配したところだ。そのシリマコスもシリアとの戦いで戦死。部下のフィレタイロスがBC281年にペルガモン王国を築き、第2のアテネと言われるほど繁栄した。

1万人を収容できる大劇場は、山の斜面を利用しているので傾斜がきつい。こんな時だけ張り切るのはいつものことで、87段の急な石段を上ってみた。ベルマガの町や遺跡がきれいに見えたので、上がった甲斐があった。

他にも、純白の大理石で作られたトラヤヌス神殿、城壁に沿った3人の王の王宮など往時をしのばせる遺跡がある。特にエウメネス2世の王宮前の回廊に続くアーチは、息をのむほどきれいだった。

ガリア人に勝利した記念にゼウスに捧げられたのが、ゼウスの祭壇だ。オスマントルコ時代の1878年に、ドイツにプレゼントしてしまったので、基壇が残るだけ。オスマントルコ末期のトルコは、ドイツ流出を防ぐ力は残っていなかっとみえる。

 ベルリンのペルガモン博物館は、ゼウスの祭壇とペルガモンからの出土品を展示するために作られた。私がベルリンに行ったときは、休館日だった。写真しか見ていないが、よくぞこれだけ大きな祭壇をドイツまで運んだものだと感心。見事な彫刻にも感心。夫はまだ東ドイツだったころに、出張の合間にベルガモン博物館を見学している。見てない私はちょっと悔しい。

傾斜がきつい劇場 アーチがきれいな回廊
アクロポリスの大劇場は傾斜がきつい 美しいアーチ

トロイ遺跡に向かう途中で、またもやアポさんはトルコ石の店に寄った。「ここの店は信用できます」というが、あきらかに店とアポさんは結託している。買う人が数人いたので、40分も費やしてしまった。添乗員は怒っているが、ふたりの力関係ではどうしようもないのだろう。ガイドと関係している店には連れて行かないというE社の約束を、こんなに破ったツアーも珍しい。

そんなこともあってトロイ遺跡に着いたのは、夕方6時を過ぎていた。さすがに観光客も少なく、日中の暑さからは解放された。宝さがしが目的だったシュリーマンが発掘したので、滅茶苦茶と言われるこの遺跡が、なぜか世界遺産である。今回の旅で5つ目。世界遺産の基準を聞いてみたいものだ。

トロイといえばトロイ戦争、トロイ戦争といえばトロイの木馬なので、木馬が復元されていなければ、観光客にはおもしろくもない。観光資源の木馬は、たびたび新しくされていて「先月覆いがとれたばかり」とアポさんが言っていた。私は高校生の頃に、ロッサナ・ポデスタがヘレンを演じた「トロイのヘレン」を見ている。その時以来、トロイを訪れたいと念じていた。念願かなった15年前に目にしたものは、がれきの山のごとき遺跡とおもちゃのような木馬だった。

トロイはBC3000年から400年にかけて、9回にわたって都市が築かれたので、9層になっている。同じ場所に9回も築いたという理由がわからない。6番目の町(BC1900〜1300)の時が最盛期。何度説明を聞いてもこの町のイメージがわかない。

トロイの木馬 何層にもなっている遺跡 劇場
ギリシャ軍が隠れたトロイの木馬 何層にもなっている遺跡。 劇場は小さい。

シュリーマンは、ホメロスがBC800年頃に書いた叙事詩「イリアス」や「オデッセイ」を本当の話だと信じて、私財をなげうってトロイを発掘した。若いときに読んだ本では、シュリーマンをこのように描いていた。しかし、最近ではシュリーマンは人気がないどころか、財宝泥棒とさえ言われる。

考古学の知識もなしに発掘を進めたので遺跡が破壊されたうえに、財宝が見つかるやドイツに持ち帰ったという。ドイツに持ち帰った「トロイの宝物」は、第2次世界大戦のときに行方不明になったが、10年前にロシアの倉庫で見つかった。今は4ヶ国(ギリシャ・トルコ・ドイツ・ロシア)で順番に展示しているそうだ。ロシアで見つかった話は、今回の旅で初めて知った。

 トロイ発掘に対する評価はそんなものとしても、シュリーマンはトロイ発掘前に世界を漫遊し1885年に日本にも寄っている。著書「シュリーマン旅行記清国・日本」を読むと、幕末の日本人庶民が、貧しくても清潔に心豊かに生活していたことが細かな描写からわかる。一級の史料だと思う。日本人を非常に暖かいまなざしで見ている。こんなシュリーマンが、単なる財宝泥棒だったのかなあ?よくわからない。

エーゲ海の落日トロイ遺跡から近いチャナッカレのホテルは、海岸沿いにあるリゾートホテルだ。8時ころ、エーゲ海に真っ赤な太陽が沈んでいった(左)。日本海で見る夕日と同じなのに、エーゲ海というだけでロマンチックな気分になる。

ところで、地中海とエーゲ海はとなりあっている。海の境はどうやって決めるのだろうと前から不思議だった。

「ダッチャという町の北がエーゲ海、南が地中海です。地中海と大西洋の場合は、塩分の濃度が違うから混じり合ってないからすぐ分かります」とアポさんから明快な答えが返ってきた。なんでもこの事実は、コーランにも書いてあるそうだ。<チャナッカレのイリスホテル泊>
(2008年11月20日 記)
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