東西トルコの旅 15
 イスタンブールへ

2007年5月9日(水)−15日目

マルマラ海

今日はチャナッカレからイスタンブールまで移動する。以前の旅は、チャナッカレからダーダネルス海峡を通りヨーロッパ側に渡ったが、今回は別ルート。アジア側のマルマラ海沿岸を走った。

マルマラ海の青と小麦畑の緑と黄色い野の花の3色(左)が、目にやさしい。10日前に、赤茶けた大地と雪山の大平原を走り抜けたことが信じられない。

昼食をとったブルサトルコの旅1の地図参照)は、オスマン帝国が2番目に首都をおいた古都で150万人が住む。米・桃・小麦・くるみの産地だが、フィアットやルノーの工場もある。

 宗教色の強い場所柄か、メフメト1世が建てたイシェル・ジャミーとムラット2世が建てたムラディエ・ジャミーのモスク見学には、スカーフ着用が祈り義務づけられた。トルコに入国してから2週間も経つと、スカーフを巻くなど手慣れたものだ。プルサに立ち寄る観光客は少ないので、モスクは閑散としていた。祈りの場(左)にふさわしい。

5時頃にヤロワという港を出航しマルマラ海をフェリーで渡った。30分後、ゲブゼという港に到着。ゲゼブに着いたとたん、急に近代的なビルが増えてきた。もうすぐイスタンブール。

 ガイドもドライバーも久しぶりに家族に会えるので朝からご機嫌だが、私も15年前のイスタンブールの面白さを思い出して、「♪・・飛んでイスタンブール・・♪」が口から出る。


シルエット 長さ1074bの第1ボスポラス大橋を渡った。この橋の手前がアジア、渡り終わるとヨーロッパ。朝はアジアからヨーロッパに向かう道が渋滞し、夕方は逆が渋滞する。職場はヨーロッパ側にあっても、アジア側に住んでいる人が多いということだ。首都がアジアとヨーロッパに2分されているなど、イスタンブール以外にない。そこに歴史の重みがあり面白さがある。

橋の上でバスが止まってくれた。ヨーロッパ側には32本のミナレットがある。深紅の太陽とミナレットのシルエットを撮りたかったが、この時6時45分は太陽が沈むにはまだ間があり、感動的な写真(左)にはほど遠い。

レストランで夕食後、旧市街のホテルに到着。以前は新市街に泊まったので情緒がなかったが、今日から3連泊するホテルは、バスが横付けできないようなゴチャゴチャした下町に建っている。<イスタンブールのプレジデントホテル泊>

5月10日(木)−16日目

ホテルの屋上からブルーモスクが至近距離に見える。朝靄の中に6本のミナレットが立っていた。私は鉛筆のようなミナレットとそこから流れるアザーンがわけもなく好きだ。イスラム教の真髄などわからないのに、響きが気に入っている。

 ツアーが始まる前に、近辺を散歩。トラム乗り場が近いので、通勤の人がせわしげに歩いていた。パンを買う人、新聞を買う人などいずこも同じ朝の風景だが、イスラムの国はなぜかワクワクする。バザール・イスタンブール大学・ベヤズットジャミーも近い。

ブルーモスク パン屋 イスタンブール大学
ホテル屋上からブルーモスクが見える。6本のミナレットがあるモスクは他にないそうだ。 出勤前にパンを買う人。焼きたてパンだ。 イスタンブール大学の入り口。気軽に校内に入れてくれた。

 今日は、イスタンブールのというよりトルコ観光のハイライトを巡る。ホテルに近い所に固まっているので歩いた方が早いと思うが、大回りをしてバスで行った。

3本の記念柱  まずローマ時代の競馬場跡ヒポドウロームへ。最初の馬車レースは203年に行われたというから、ベンハーの馬車レースより200年も後だ。広場を囲む街路が当時のトラックの跡になっている。この広場に、3本のモニュメントが立っている。 

 テオドシウスのオベリスク(写真の右)は、エジプトのトトメス3世がアメン神殿に建てたオベリスクを、390年に皇帝テオドシウスがここに運んだ。もともとは60bもあったが、運ぶ途中に破損。上部の20bだけがここにある。

 「エジプトの旅」でも書いたような気がするが、エジプトのオベリスクは、各国で人気がある。その時代に力のあった国が、エジプトから略奪してきた。時代と国をみると、世界史が見える。

コンスタンチノープルのオベリスク(写真の左)は、コンスタンチヌス7世が940年に建立したと言われるが、詳細はわかってない。以前は金で覆われていたが、十字軍が剥ぎ取ったらしく無惨な姿だ。

 3匹の蛇が絡み合った円柱
(写真中の黒っぽい柱)もある。BC479年にギリシャのデルフィのアポロン神殿に建立されたものを、コンスタンチヌス1世がイスタンブールに持ってきた。(2008年12月2日 記)

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