東西トルコの旅17
 イスタンブール 2

2007年5月11日(金)−17日目

クルド人

 ホテルは旧市街にあるので道幅が狭く、バスの運行には不便だ。今朝も違法駐車している車のせいで、難儀した。アポさんは「こんなことをするのはクルド人だ」と怒っている。東を回っている時はクルド人の子ども達を可愛がっていたが、本心ではクルド人を差別している。貧しさから抜けようと大都会に来ても、違法駐車せねば食べていけない彼らに少し同情してしまった。大きな荷物を担いで日銭を稼いでいるのもクルド人(左)だった。

 まずトプカプ宮殿に向かった。歴代皇帝の居城であり政治の中枢だったここを訪れると、オスマン帝国の権力を実感できる。トプカプという名前からして宮殿のイメージから遠い。トプカプは大砲の門という意味で、実際に海沿いの城壁の門に大砲を備えていた。

 「スレイマン大帝(1520〜1566)が君臨していた最盛期には、今の独立国が32も入るほど広い領土だったんです」とアポさんは少し自慢げに説明した。

オスマン帝国の最大図 アルジェリア・チュニジア・リビア・エジプト・サウジアラビア・エルサレム・レバノン・シリア・イラク・ギリシャ・ハンガリー・ルーマニア・アルバニア・ブルガニア・マケドニア・セルビア・モンテネグロ・ボスニアヘルツゴビナ・コソボ・クロアチア・スロベニア・アルメニア・グルジア・アゼルバイジャン・・。当のトルコを入れてもまだ25ヵ国。ともかく、帝国という名に恥じない広大な領土を支配していた。

 左地図は2007年8月から9月に東京都美術館で開かれた「トプカプ宮殿の至宝展」のパンフをコピーしたもの。茶色部分が帝国の領土。ウイーンの人たちがトルコを怖がっていたことが、この地図からも想像できる。

 トプカプ宮殿は、ボスポラス海峡と金角湾とマルマラ海が交わる高台に建っている。つまりアジアもヨーロッパも視野に入る。しかも海側を2キロの陸側を1.4キロの城壁で囲まれていた。これほど恵まれた地に建つ宮殿でさえ、永遠ということはない。実際にオスマン帝国は約400年後に滅亡した。

 下の写真は午後に訪れた新市街のガラタ塔から見たトプカプ宮殿。手前の海が金角湾、左手の海がボスポラス海峡、遠くにマルマラ海が見える。奥に見える陸は、イスタンブールのアジア側。

新市街からのトプカプ宮殿

 宮殿内部には中門から入った。混んでいるのでガイドの説明が禁止されているのか、アポさんは各部屋の概略を話しただけで、集合時間が告げられた。

 宮廷で使われた中国の青磁・白磁、日本の伊万里焼などの陶磁器は目の保養になる。4000人の食事をまかなっていた厨房には、大きな窯や大きな鍋が当時のままに保存されている。ここで世界4大料理といわれるトルコ料理が生まれた。「トプカプの秘宝」を展示した宝物館は大混雑。なかでも「短剣」と「スプーン売りのダイヤモンド」が有名だ。宝石の価値がわからない私は、宝石そのものよりも、これだけのものを集めたオスマン帝国の権力に思いをはせる。

北端のテラス近くにあるバクダッドのキオスクは、1638年にバクダッド征服を記念して建てた四阿屋。JR駅の売店をキオスクというが、もともとこのキオスクからヒントを得たと以前のガイドから聞いた。真似された本家のキオスクがお気の毒。はるかに立派なのだから。

宮殿の中門 伊万里焼の皿 厨房
中国の皿
宮殿の中門。門に入ると別世界が待っている。 陶磁器展示室の絵皿。 4000人を賄った厨房。

 15年前には時間がなくて寄らなかったハレムが、いちばん印象に残った。議会や宰相の部屋など公的な場の奥は、皇帝個人の領域になっている。ハレムは江戸城の大奥と同じようなもので、男性は皇帝・皇子・黒人の宦官だけに許された区域。鎖国をしていた江戸時代に、トルコと交流があったとも思えない。にもかかわらず、ハレムと大奥という同じような施設があったことが面白い。しょせん権力者の考える事は、似通っている。

 ハレムの主要部分はムラト3世により作られ、その後増改築されて400の部屋がある。どの部屋もセンスある豪華なタイルで覆われている。西洋の宮殿のように金ぴかでないところが私の好みに合っているが、頼まれてもこんな所には住みたくない。窓が少なくて窒息しそうだ。おまけにハレムに住む女性は数百人。いろいろな意味で、居心地が良かったとは思えない。ハレムでいちばん実権を握っていたのは母妃で、皇帝の妃や世継ぎを決める時にも力を発揮した。そのせいか母妃の部屋や浴室はことのほか豪華だ。皇帝の寝室はなかった。暗殺を防ぐためだという。

ムラト3世のハレム 皇帝の広間 ハレム内のタイル
ムラト3世のハレム ハレム内の皇帝の広間 ハレム内のタイル

 次は歩いて地下宮殿へ行った。冒険小説が大好きだった私は、地下道・地下牢・地下墓場など地下とつくだけでワクワクしてくる。宮殿とは名ばかりで単なる貯水池と知ったときは、ほんとにがっかりした。

 378年ヴァレンス皇帝の時のヴァレンスの水道橋を通って郊外から運ばれた水を貯水した。そのヴァレンスの水道橋の下に、今も幹線道路が通っている。1600年以上前の水道橋が街にとけ込んでいる。イスタンブールは、ひとことで言うとそんな街だ。

 地下宮殿は532年ユスティアニヌス帝のときに改築した。縦141b、横73bの空間が、合計336本の柱で支えられている。遺跡から持ってきたコリント式の柱や、メデーサの首が柱の台座に使われている。メデーサは見る者を石に変えたという恐ろしい女神だが、ひとつは逆さまひとつは横倒し。その顔に青や赤のライトアップが当たっているのでますます不気味。メデユーサやコリント式の柱があることで宮殿の名がついているが、しつこいようだが単なる暗い貯水池である。

地下宮殿 メデユーサの首 シルケジ駅
こうしてみると宮殿に見えなくもないが、貯水池。 メデーサの首が台座に使われている。ライトアップが気持ち悪い。 オリエント急行の終点・シルケジ駅構内。

 1時半からオリエントエクスプレスというレストランで昼食。名前のとおり、オリエントエクスプレスの終点シルケジ駅の駅舎を利用したレストランだ。「オリエント急行殺人事件」などの舞台になったオリエント急行には前から憧れているが、前回も今回も入線している列車を写しただけだった。 (2009年1月2日 記)

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