東西トルコの旅18 2007年5月11日(金)-17日目 イスタンブール2日目の続きを書いている。午後は自由時間ということだったが、団体行動から解放されたのは2時過ぎ。ベリーダンスのショーに行くので7時には戻らねばならない。5時間をどう使おうか。 前に来たときに、小高い丘にひときわ目立つスレイマニエ・モスクに行きたかったが時間がなかった。スレイマニエ・モスクは絶頂期のスレイマン1世が建立したモスク。「今度こそ行くぞ」と地図を見ると、ホテルから歩いてもすぐのように思える。アポさんに相談したら、「僕は歩いたことがないから、お勧めできない」と言う。「ホテルに時間まで戻らなかったら、直接ベリーダンスの店に行きますから」と言っても、添乗員とアポさんは渋い顔。「何かあっても旅行社の責任ではありませんよ」などいう。自由時間に自分たちが責任を持つのは当たり前なのだが、このしつこさはなんなのだ。 お目当てのガラタ塔までは少し迷った。迷ったおかげで、トルコの下町情緒に浸ることができた。小さな果物屋・雑貨屋がならぶ通りを、チャイやパンの出前をしている人が歩いている。なぜか、外で働いているのは男性ばかり。屋台や出前で女性はめったに見かけない。
ガラタ地区は、ビザンチン時代にジェノバ人の移民が住み着いた町。ガラタ塔はビザンチン帝国の見張り塔として1338年に建立したが、今は展望台になっている。ここから、マルマラ海・ボスポラス海峡・金角湾の3つの海の交差(イスタンブール2の写真参照)を見ると、イスタンブールの地の利の良さが一目瞭然だ。メフメト2世がビザンチン帝国を攻撃した戦術を思い浮かべながら眺めると、なおいっそう面白い。 昨日と今日の午前中に訪れた旧市街メインスポットを(下の写真の左がアヤソフィア・右がブルーモスク)、対岸から見る。こんな贅沢はない。この都は3度名前を変えている。BC660年ころにギリシャの植民都市になりビザンチオン、AD330年にローマのコンスタンチヌス1世が遷都してコンスタンチノープル、1453年にオスマントルコの征服でイスタンブールに。紀元前から現在まで都であり続けた例は他に知らない。ギリシャ・ローマ・イスラムが融合している素晴らしい街だと思う。ガラタ塔からの眺めは、あらためてこんなことを考えさせてくれた。
帰りは地下鉄やトラムを使わないでガラタ橋を歩いて旧市街に戻った。橋の上は車・歩行者以外に、トラムまで通っている。釣り人(左)もたくさん。橋の下にはレストランが何10軒も並んでいる。サバサンドなどの庶民的なものから、高級な海鮮料理の店もあった。以前来たときにはガラタ橋のたもとの屋台で、焼き魚のにおいがしていたが、今は橋の下に全部収まってしまった。 ガラタ橋の旧市街側は、まるでここがイスタンブールの中心であるかのように活気があった。シシケバブ・とうもろこし・アイスクリームの屋台が出ていた。 ここからスレイマニエ・モスクまで遠くはなさそうだが、歩き回って少し疲れていることもあり、ガラタ橋の目の前にあるイエニ・モスクに行ってみた。このモスクは1663年に完成。中庭の清めの泉は、イスタンブールでもっとも美しいそうだ。今日は金曜日、しかも午後のお祈りの時間だ。ダメもとで、「入っていいか」と言ったら「いいよ」というしぐさをしてくれた。ここもブルーモスク同様、ムスリムと観光客を隔てる柵ができているが、観光客はほとんどいないので、悠々と座ることができた。ドームも壁もブルーモスクに劣らずきれいだ。疲れた足を休めるにはちょうどいいと不謹慎な考えで座っていたが、コーランとそれに唱和する声が、非常に心地よくなってきた。 彼らが帰りはじめても、そこに座っていた。初老の上品な男性が「モスクにきてくれてありがとう」と握手を求めた。私達は、地元の人が集まるモスクを見たかったにすぎないので、恐縮してしまった。今度は40代とおぼしき男性が、ニコニコと近づいてきて、プチトマトの房をプレゼントしてくれた。夫に1房、私にも1房。なんていい人達なんだろう。
「エミノニュ」駅からトラムに乗ってホテルまで戻った。わずか5時間だけの自由行動だったが、出会いと発見があった。もしトルコ再訪が叶うなら、ツアー旅行ではなく、イスタンブールだけを自由に歩きたい。まだ見ていない博物館もたくさんある。そこは、驚くほど人が少ないに違いない。(2009年1月16日 記) 感想・要望をどうぞ→ 東西トルコの旅1へ 次(イスタンブール4)へ ホームへ |