東西トルコの旅6 2007年5月1日(火)−7日目 しばらく雪の山岳地帯を走ったが、海抜が低くなるにつれて、アーモンドの花・白ポプラ・杉の木が増えてきた。きのうまでの赤茶けた大地は、日本の山沿いを走っているような景観に変わってきた。黒海が近いのだ。渓谷沿いのレストランで、川で釣った鱒料理を食べた。 昼食後、小さなバスのドルムシュに分乗してスメラ僧院のふもとへ。林の中の小道を15分ほど歩き、標高1200メートルの僧院へ着いた。山奥でしかも断崖絶壁にへばりつくように建っている僧院である。宗教心に乏しい私は、「食べ物の入手が大変だったろうに」と俗っぽい感想しか思い浮かばない。
東西ローマが分裂した4世紀に、ギリシャ人修道士が住みついたことに始まる。現在の形になったのは13〜14世紀。碑文が残っていて分かったそうだ。1916年にロシアに侵入されるまでは僧院だったが、今は無人である。 内部や外壁のフレスコ画は、風雨にさらされている割には色彩もきれい。保存状態がいいのは、描かれたのが18〜19世紀初と割と新しいこと、オスマントルコがギリシャ正教を保護したからだと言われる。 午後4時ころに、黒海に面した港町トラブゾン(東西トルコの旅1の地図参照)に着いた。黒い海という不思議な海を見たいと思っていた。ガイドブックには、「海の色が黒いから黒海だ」と書いてあるが、どう見ても今日の黒海は青い(左)。 トラブゾンは、ギリシャ人が多く住んでいた。アナトリアの中で最後にオスマントルコの支配に入った地である。港町なので、イスタンブールに次いで売春婦が多いとか。革命後にソ連から入国したロシア人売春婦とトルコ人のカップルも多い。アポさんは、「町を歩くと色の白いロシア人女性がたくさんいる」と言っていた。 トラブゾンでまず訪れたのは、黒海を見下ろす丘に建つアヤソフィア。アヤソフィアというとイスタンブールのそれが有名だが、ここのは小アヤソフィアと呼んで区別している。
13世紀に今の形に作られたが、17世紀にモスクに転用。でもキリスト教徒の使用も認められていたという。ビザンツ様式とセルジュク様式が混合しているのもこのためだろう。フラスコ画も見事だが、フラスコ画はスメラ僧院でさんざん見たので、どうしてもおざなりになる。他の人の思いも同じらしく、内部の見学は早々にして、黄色と白い野の花で埋め尽くされている庭を散策した。 ビザンチン時代の城壁を見てから5時ころにホテルへ。ホテルが中心部に近かったので、町を散策した。アタチュルクの大きい像が立つ公園はたくさんの人で賑わっていた。マクドナルドもあり、これまで回ってきた東部の町とは少し違う感じがする。明るくて開放的 。<トラブゾンのグランドゾル泊>
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