東西トルコの旅 8 2007年5月3日−9日目 今日から帰国までの旅は15年前に訪れた所なので、未知の世界に足を踏み入れる高揚感がない。トルコほど印象深い国はなかったし、15歳も若かったから細部まで覚えている。ワクワク感がないのは、困ったものだ。 サフランボルを7時に出発し、首都のアンカラに10時頃入った。海抜は800bとかなり高い。アタチュルクは、まず国会議事堂を置き、3年後の1923年に都を遷した。その時3万人に過ぎなかった人口は、現在450万人以上。イスタンブールに次ぐ第2の都市だ。 アンカラにはローマ時代の浴場跡やアウグストウス神殿跡などもあり、前回は簡単に見学した。今回は博物館とアタチュルク廟の2ヶ所だけ。車が混んでいるから移動に時間がとられてしまい、見学がはしょられる。繁華街や官庁街も歩かなかったので、首都を膚で実感出来なかった。 紀元前7000年の新石器時代・青銅器時代・ヒッタイト・ウラルトウ・ビザンチン・オスマントルコまでの発掘品が展示されている。特に、ヒッタイトの展示は世界的に有名。世界最初の町と言われるチャタルフックの模型もみどころ。以前来たときも、くさび形文字で書かれた手紙と封筒に驚いたが、今回もそれが印象に残った。
次はアタチュルク廟へ。アタは父、チュルクはトルコという意味。トルコを独立させた功労者のケマルパシャを慕って、アタチュルクと呼んでいる。第1次世界大戦でドイツ側に立ったオスマントルコは、敗戦国。連合国はボスポラス海峡・ダーダネルス海峡、イスタンブールの管理権を取得し、オスマン帝国は事実上の終焉を迎えた。 ところが1919年、トルコ国民は占領軍(フランス・ロシア・イギリス・ギリシャ・イタリア)に対し、独立をかかげて戦った。ケマルパシャは「独立かしかずんば死か」をスローガンで果敢に戦い、独立を勝ち取った。特にダーダネルス海峡での戦いは、3月16日から29日までの短い期間に、死者は両軍で50万人にもなった。半数はトルコ人。 大統領に就任後、政教分離・トルコ帽の禁止・一夫多妻の禁止・アラビア文字を禁止しアルファベットにするなど、革新的なことを次々打ち出した。国民のほとんどはイスラムの信者だが、政教分離をうたっているので、イスラム教は国教ではない。他のイスラムの国のほとんどがアラビア文字を使っているのに、トルコでは看板すら見かけないのは、このためだ。
アタチュルクの銅像は、小さな町でも見かけた。特に頭部だけの像は、すべての学校の校庭にあるという。コインも紙幣もすべてアタチュルク。いまだに国民のほとんどが、尊敬しているのは、ある意味で驚異的だ。アポさんの言葉の端々からも、彼に心酔していることがくみ取れる。 イスタンブールのサッカーチーム「フェネルバフチェ」が、アタチュルク廟に必勝祈願に来ていた。イスタンブールには3つのチームがあり、「フェネルバフチェ」は、元全日本監督だったジーコが監督している。ジーコのファンではないが、なつかしい。会いたいと思ったが、選手の先に行ってしまったのか見かけなかった。高校時代にサッカーをしていたアポさんは、サッカーの話になると熱が入る。日韓ワールドカップ準決勝でトルコは日本を1―0で下し3位になった。小雨降る仙台のスタジアムで、日本はトルコに負けた。 ライオン像が両側に並ぶ参道を過ぎると、とてつもなく広い広場があり、その奥が廟だ。地下には、彼の功績・遺品が展示されていた。特に独立戦争の具体的な戦いを再現した仕掛けは、リアルで臨場感があった。数年前に作られたというから、前は見ていない。もっとゆっくり見たいほど内容ある展示だった。
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