ベトナム縦断の旅2 
 ハロン湾とフエ

2010年3月27日(土)−3日目

ハノイからバスでハロン湾ベトナム縦断の旅1の地図参照)に向かった。途中30分の休憩を含めると約4時間もかかった。途中には日本のキャノンなど、大規模な工業団地があった。キャノンの進出で約1万人の雇用をもたらしたそうだ。

バイチャイという町でバスを降りてすぐ、ジャンク船に乗り込んだ。ジャンクは平底帆船のこと。ガイドブックには、一流ホテル並の設備を誇る船も紹介してあるが、私たちが乗ったフンハイジャンク号は、狭い客室でシャワーもろくに使えなかかった。でも部屋に暖房が入り、心地よかった。ベトナムに暖房が必要なのかと不思議に思うかもしれないが、暖房がいるほど寒かったのは確かだ。天気がよくないせいもある。

ハロン湾 ハロン湾 ジャンク船のキッチン
上陸したティトップ島からの展望  3000もあるというハロン湾の島々  18人分の食事を作るには粗末なキッチンだが味は抜群だった。 

部屋はよくなかったが、船内での食事はピカ一だった。狭いキッチンで18人分の食事をよく作れるものだ。メニューは茹でエビ、蒸し貝、サツマイモのフライ、ポークのフライ、魚やイカのフライ、野菜炒め、ご飯、フルーツ。考えてみると食材は新鮮な魚介類。おいしいのは当たり前かもしれない。

 ハロンの「ハ」は降りる、「ロン」は龍の意味。伝説では敵の侵入に悩まされていたときに天から龍の親子が降りてきて、敵を破り口から大きな玉を吹き出した。それが今に残る2000から3000もの岩だという。こんな岩の間を船は進む。天気がよくないので、うたい文句にあるようにエメラルドグリーンの海ではなかったが、墨絵の感じは出ていた。

 1回目の上陸はスンソット洞窟。洞窟内には見事な鍾乳洞がある。日本や世界で飽きるほど鍾乳洞を見ているので、さほどの驚きはないが、いつもながら自然が作る造形美には感心する。

 2回目の上陸はティトップ島。500段の階段を上った展望台からは、ハロン湾が一望。1994年に世界遺産に指定されただけのことはある絶景だ。ロシアの宇宙飛行士ティトップがホーチミンと共にこの島をおとずれたことから、島の名前につけられた。「ホーチミンの晩年には、人類が宇宙に行っていたのだなあ」と思いめぐらしていたら、ホーチミンはアポロが月に着陸した1969年に亡くなったと気づいた。

 ハロン湾の夕日が素晴らしいとガイドブックには出ているが、今日一日中、太陽など出ていない。夕日など見えるはずもない。暗い中、イカ釣りをした。同行のHさんはスポーツ新聞に名前が載るほど海釣りの名人だが、そのHさんでも釣れなかったようだ。私は寒いので早々と部屋に引き上げた。ジャンク船は、ティトップ島に近い静かな入り江に停泊。他にも何艘か停泊していた。<ハロン湾のジャンク船泊>

3月28日(日)−4日目

 夕日より朝日がもっときれいだと本に載っているが、今日も太陽から見放されている。でも、部屋の窓から見る朝靄のハロン湾も悪くはない。

 ハロン湾の洞窟朝食後、小舟に乗って洞窟(左)をくぐり抜けた。イタリアの青の洞窟みたいに天井の低い洞窟をくぐってから、静かな入り江に行った。餌付けしているサルが何匹もいて楽しませてくれた。

 11時にはジャンク船を下りた。下りた港のバイチャイのレストランで食事。時間が余っているからか、真珠工場を見学した。12月に上海で淡水真珠を見たばかりだが同じようなもの。ひとつの貝からたくさんの真珠が出てきた。塩水真珠は丸いが、淡水真珠は楕円形。

 「プラスチックだと火であぶった場合に黒くなる、本物は黒くならないから見分けがつく」と説明をする。中国でも同じように、ライターでつける所作をよくするが、偽物を堂々と売っているからこそのライター登場だ。

 また4時間をかけてハノイに戻ってきた。夕食はハノイの空港内レストランでとった。

19時30分(ハノイ発)→ベトナム航空で20時40分(フエ着)   <フエのパークビューホテル泊>

3月29日(月)-5日目

 ハノイ中心の旅を終え、中部に来た。中部のガイドはズンさんという1975年生まれの男性。3歳の子どもがいるが、両親と暮らしているので奥さんも働いている。中部はベトナムの中でも発展から少し遅れている。おまけに日本人が大挙しておしかける地域ではないので、日本語ガイドが少ないのだろう。ズンさんも、おぼつかない日本語だった。ガイドによって旅の印象が違ってくるが、私たちは選べないので仕方ない。

フエベトナムの旅1の地図参照)はベトナム最後の王朝であるグエン朝(1802〜1945年)が置かれた古都。今の人口は35万人。フランス人が作った鉄道があるが、ハノイまで13時間、ホーチミンまでは24時間もかかる。ハノイからホーチミンまで新幹線を作る計画だ。帰国後に聞いたニュースでは、日本が受注しそうだ。

ハノイは1000年の都でありながら面影をほとんど残していないが、フエには古都の佇まいがある。満州が日本の傀儡政権だったように、この王朝はフランスの後押しがあって出来たものだ。1858年にはフランスがベトナムに侵攻、1887年には仏領インドシナ連邦成立。フランスの植民地のもとでの王朝だったが、13代も続いた。

住職の車 まずフエの郊外へ。ドラゴンボートに乗ってフォン川を遡り、ティエンムー寺に行った。1601年創建の古い寺。橋があるからバスでも行けるが、ボートに乗っての観光だった。

 境内のすみのほうに、半分焼けただれた自動車(左)が展示してあった。フエ出身の住職がベトナム戦争中にフエからホーチミンまで車で移動。アメリカ大使館前で焼身自殺して政府に抗議した。そのときの自動車である。

 私はこの映像を覚えている。ガソリンを浴びて全身炎に包まれているのに、合掌していた僧侶の凜とした姿に衝撃を受けた。すっかり忘れていたが、ベトナム戦争のむごさを思い出してしまった。もっともベトナム戦争終結の年に生まれたズン君は、この自動車についてひとこと簡単に説明しただけだった。

 またボートに乗ってトウドウツク帝廟へ。グエン王朝の中でいちばん在位(1848〜73)が長かった第4代皇帝の廟。在位中は別荘にも使われた。103人もの愛妾がいたという。どこにもある話。

 次はカイディン帝廟。カイディン帝は1916〜25年在位で12代目。13代目はフランスに亡命しているので最後の皇帝とも言える。建物はヒンズー教やキリスト教の影響も受けている。フランス植民地時代の建築だからキリスト教様式というには分かるが、なぜヒンズーなのだろう。後に分かったのだが、中部にあるチャンパ王国ではヒンズー教が信じられていた。

 昼食は宿泊したホテルのレストランで、宮廷料理を食べた。宮廷料理などより、庶民で混み合っている屋台の方が美味しいのが常識だが、ここのはまあまあだった。アオザイを着た女性達による民族音楽の演奏もあったが、さして印象に残らなかった。一組のご夫婦が、皇帝と皇后の衣裳を着て上座で食事をした。レストランでは、要求に応えてくれそうな人を、即座に見つけるのが上手だ。まちがっても私たち夫婦にはお声はかからない。

 午後は古都最大の見どころである王宮に行った。泊まったホテルは新市街にあるが、王宮はフォン川をはさみ旧市街にある。600b四方の王宮の回りには、高さ5メートルの城壁を持つ立派なものだ。4つの門のひとつ午門から入った。午門は太陽が真南にくることから正門になっている。1945年に最後の皇帝が王朝の終焉を宣言した門でもある。太和殿は中国の紫禁城を模した宮殿。紫禁城を模した宮殿は韓国でも見た。あらためて、中国の歴史と力を思う。

王宮 王宮の門 王宮の弾丸痕
フエの王宮は立派な城壁がある。  王宮の正門・午門  王宮の扉には弾丸の痕がある。 

この宮殿には戦争の銃弾痕も残っている。20世紀のベトナムで戦争という場合は、フランスからの独立戦争(インドシナ戦争)もある。「どの戦争?」とガイドに聞いてみたが、日本語力の不足なのか知識不足なのか、はっきりした答えはかえってこなかった。

 「戦争といえばこの間のに決まってるでしょう」と同い年ぐらいの同行者に馬鹿にされたが、言い返すのも大人げないから黙っていた。ベトナム戦争は、南軍とアメリカ対北軍とベトコンの戦いが思いつくかもしれないが、その前にはフランスと戦っていたのだ。宮殿の銃弾あとの真相はわからずじまいだった。

帰国後に調べたところ、フエはフランスにもやられ、アメリカにもやられている。いずれにしろ、王宮が今のように廃墟になったのはベトナム戦争の時だという。フエは当初は南ベトナムに属していたが、北ベトナムに組み入れられてしまう。だからアメリカが攻撃したのだろう。

 ここまででフエの観光は終わり、バスで南シナ海を見ながらホイアンまで南下。ランコービーチで休憩。ランコーは皇帝達の避暑地だっただけあり、海がきれいだった。海を見ながら、ベトナムコーヒーを飲んだ。コーヒーの粉を入れたアルミ容器をカップの上におき、上から熱い湯を注ぐ。こういう場所で飲むと、なんでも美味しい。ちなみに、ベトナムのコーヒーの生産量は世界2位。1位はブラジルである。

 更に南下。途中で東南アジア最長の6.3`のトンネルを抜けた。2005年に日本の技術援助によりハイヴァン峠の下に作られたトンネル。おかげで40分も短縮された。この峠は南北ベトナムの分水嶺でここを境にして天気も変わるという。

ベトナム戦争時にアメリカ軍の基地が置かれていたダナンを通過、当時はよく耳にしていたので下りてみたかったが、そうはいかないところがツアーだ。アメリカは南政府のために大規模な基地と空港を作った。ベトナム戦争時代は、もっとも激しい戦場になったそうだ。ダナンの解放は1975年3月29日で、ホーチミンより早い。

 (2011年8月2日 記)

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