ベトナム縦断の旅


2010年3月25日(木)〜4月4日(日)

バッチャン村とハノイ
ハロン湾とフエ
ミーソン遺跡とホイアン
メコンデルタ
カントーからホーチミンへ
クチの地下トンネルとホーチミン市内
ホーチミン市内
ベトナムはおいしい

ベトナム縦断の旅1
 バッチャン村とハノイ

2010年3月25日(木)-1日目

9時成田集合 11時(成田発)→ベトナム航空955で15時10分(ベトナムのハノイ着) 6時間10分のフライト

ベトナム地図

 ベトナムは3度目の訪問になる。最初は10年前の2000年にホーチミン市だけを訪れた。2回目は2007年に、ハノイ北部の少数民族が住む地方を訪れた。中央部は知らない。同行の旅友Hさんは一度も行ったことがない。そんなこともあって、ベトナムを縦断するE社のツアー(左)を選んだ。

ハノイの空港に、北部ガイドのトウアン君が出迎えてくれた。大学を卒業したばかりの23歳の若者で、少々日本語はおぼつかないが、真面目さが伝わってくる好青年。来年は日本に留学するつもりだという。

空港から市内に向かう途中の田園風景は、高度成長が始まる前の日本の農村とよく似ている。ノン(ベトナム特有の菅笠)をかぶった女性たちが牛と一緒に田仕事をしている。旅の最初からベトナムらしい光景を目にしてご機嫌だったが、バスの中からでは写真が撮りにくいのでシャッターを押さなかった。これから何度も見られると思ったからだが、これが最初で最後だった。

 米の生産量は世界1(2位はタイ)、しかも北部は二期作、南部にいたっては三期作なので、田園風景はたくさんある筈だが、そんな場所は観光にならないと思ってか、立ち寄らない。

2010年はハノイ遷都1000年である。長いこと中国の支配下にあったベトナムが、独立したのは938年。その後1010年に李太祖による李朝が成立し、今のハノイに首都・タンロンが誕生した。その間、グエン時代(1802〜1945年)にフエが首都だった期間をのぞき、ハノイはずっとベトナムの首都だった。

夕食はブンチャー(肉と麺)、チャーカー(魚の揚げ物と麺)、揚げ春巻き、チキンの炒め物、魚のグリル、ご飯、餅米のデザート。前の旅で食べたベトナム料理は、とてもおいしかった。今回はすべての食事をカメラにおさめるつもりだ。   <ハノイのシェラトンホテル泊>

3月26日(金)-2日目

今日は郊外のバッチャン村とハノイ市内観光をすることになっている。南東10`にある陶器で有名なバッチャン村に向かった。道筋に平行して流れているのは、中国を源流にしている紅河だ。この河沿いの国境の街ラオカイから北部ベトナムに入ったことがある。河川による物流が盛んだった頃に、中国がこの地を欲しがった理由が分かる。

バッチャン焼バッチャンでは、600年ほど前から陶器作りが始まった。江戸時代には安南焼として日本にも輸出されたという。安南焼の茶道具を見たことがある。

メインストリートの両側には、たくさんの工房が連なっている。こんなにあって商売が成り立つのかと、余計な心配をしたくなる。そのひとつを見学。型に粘土をいれ、乾いたら濡らした布で凹凸を作り、手書きで絵付けをし、釉薬を塗って焼きあげる。

 陳列してある完成品(左)のどれを見ても質が高そうには思えず、つい日本の100円陶器と比べてしまう。でも藍色や赤色の素朴な文様に人気があり輸出もされている。私は、記念に箸置きを買った。Hさんはサツキの盆栽をたくさん持っているので、盆栽の根元に置く小さな人形を買った。

ハノイ市内に戻って、歴史博物館を見学。ベトナムの古い歴史は世界史で習わないし、さして関心もなかったが、中国と接しているだけに常に中国の脅威にさらされていたことが分かった。特に興味を引いたのは、2度も日本に攻めてきた元(モンゴル)が、同じ時期に安南と言われたベトナムにも侵攻している。日本に3度目の侵攻をするつもりだったが、安南侵攻と重なってしまい、あきらめたという。安南攻めがなかったら、日本の歴史は変わっていたかもしれない。

指揮官がハロン湾にモンゴルの軍艦を誘い込み、浅瀬に杭を打ち込んだために軍艦は身動きできなくなった。島の間を小舟で動き回ったベトナムが大勝利。連戦連勝のモンゴルにとっての負け戦は日本とベトナムだけだったというから、面白い。日本の場合は神風が吹いて勝利したと信じているが、ベトナムも龍の助けがあって勝ったと信じている。いずれにしろ、草原の民・モンゴル人は、海での戦い方を知らなかったのだろう。

ホーチミン廟昼食後にホーチミン廟の外観(左)を見に行った。ホーチミン(1890〜1969年)は言うまでもなくベトナムの独立を勝ち取った英雄。20歳で渡仏しフランス共産党に入り、帰国後はベトミンを組織してフランスからの独立運動に勢力を傾けた。進駐していた日本が負けて撤退したのを機に、ホーチミンは、1945年にベトナム民主共和国独立の宣言をした。

独立を承知しないフランスとの間にインドシナ戦争が勃発したが、1954年にフランスのディエンビエンフーの要塞が陥落してベトナムが勝利した。

 私はディエンビエンフーという地名をかすかかに覚えている。この地名が何度もニュースに登場したからだろう。このときに、北緯17度線で南北に分裂し、南にベトナム共和国成立。1964年のトンキン湾事件でアメリカの北爆開始。アメリカ軍の本格的な参戦が始まった。1975年にサイゴン陥落。ベトナム戦争が終結した。ベトナムの独立に一生を捧げたホーチミンだが、戦争終結を見ぬまま1969年に死去。

この廟は、ベトナム戦争終結後の1975年に作られた。北京の毛沢東廟やロシアのレーニン廟と同じような佇まいである。毛沢東と同じように、遺体がガラスケースの中に安置されているという。毛沢東がそうであるように、蝋人形かもしれないが、真偽のほどは聞いていない。廟の両側に、1時間毎に交代する白い制服の若い軍人が立っていた。

廟の前にある広場は、1945年にホーチミンが独立宣言を読み上げたバーデン広場。午後9時を過ぎると、広場には入れない。ホーおじさんの睡眠を妨げないように、静けさを保っているのだとか。

ガイドのトウアン君は、心底ホーチミンを尊敬している。ホーチミンを語るときの目つきや口ぶりから察すると、自分のオジイサンのような親しみさえ持っている。「ベトナム人は誰でもホーチミンのことが大好きです」とも強調した。誰もが好きでないことは、南部に行ったときにわかった。

廟から歩いて5分ほどの一柱寺に行った。子宝の寺として参詣者が多いそうだ。1本の柱に仏堂をのせているので、この名がある。李朝時代の1049年建立だが、今あるのは再建。

次に向かったのは文廟。孔子を祀っているので、孔子廟とも言われる。脅威にさらされていた中国の思想家・孔子を祀っているのはなぜだろう。それも中国から独立後の1070年に建てられただけに不思議。ベトナム人にとって中国は、身近な存在なのだろう。

孔子廟建設の6年後に、同じ敷地内にベトナム初の大学が作られた。ベトナムには中国の科挙と同じように官吏登用試験があった。試験に通るためにここの大学に全国の秀才が集まったそうだ。境内の左右には亀の頭の台座と石碑が並んでいる。石碑には、官吏登用試験の中の進士の称号が与えられた1306名の名前が刻まれている。

 団体で見学に来ていた高校生が、台座の亀をなでていた。亀をなでると頭がよくなり試験に合格すると言われている。日本の受験生が、気休めで天満宮にお詣りするようなものだ。日本の高校は団体でお詣りすることはないと思うが、ここでは、全体で合格祈願のお祓いごときものを受けていた。

一柱寺 文廟の高校生 お年寄り
支えている柱が1本の一柱寺。 文廟で高校生がお祓いのような儀式を受けていた。 玉山祠の境内で勝負ごとをしているお年寄り。

次は1865年建立の玉山祠へ。玉山祠はホアンキエム湖に浮かぶ小島にある。正殿には、元の侵略を撃退した陳興道将軍・儒学者・医聖などが祀られている。ベトナムの偉い人を一緒くたに祀ってある。

 境内には、碁に似ている勝負をしているお年寄りがたくさんいた。対戦者以外に見学者が大勢いるのは、いずこも同じ。「平和になって良かったわね」と思わず声をかけたくなる光景だ。

玉山祠周辺には、見どころが集まっている。すぐ近くに11世紀に作られた旧市街がある。ここは産業の中心だった場所で「36通り」とも言われる。かつては通りごとに違う職種の人たちが住んでいた迷路のような所で、今は雑貨・生地・洋服・食品などが山積みだ。

 買いたいものもないが、土産にする菓子類を見て回った。以前のベトナム値段に比べると、とんでもなく高い。日本と比べてもそう安くない。値段を交渉しても引かないし、他の国のように追いかけてくることもない。「ベトナムではこんなに物価が上がったのかなあ」と思いながら、ホーチミンに行けばもっと高いかもしれないと、10袋ほどのショウガ菓子を買った。それはやっぱり高かったのだ。10日後にホーチミンの国営スーパーで買った同じ菓子は、半値だった。ベトナム女性の強かさを思い知らされた。

フリータイムが余ったので、Hさんと夫の3人でお茶することにした。ホットコーヒーを頼んだのに、なぜかたっぷり氷が入ったアイスコーヒーが運ばれてきた。ベトナムでお腹を壊した話はあまり聞かないし、過去2回にもそんなことはなかった。でもここは、清潔とは言い難い旧市街。旅の2日目にお腹を壊したら困るなと思いながら、ついつい全部飲んでしまった。結果はセーフ。

バイクに乗ったまま買い物コーヒーを飲みながら道行く人を眺める。相変わらずオートバイの爆音はすさまじい。「ホーチミンはもっとスゴイのよ。10年前の旅でいちばん印象に残ったのはオートバイとスクーターだった」と傍らにいるHさんに話した。交通規則はあるのかないのか、あっても守らないのは確かだ。

 でも土地っ子は慣れているらしく、車やオートバイが走る中をスイスイ歩き回っている、天秤をかついだ人はむしろ堂々と通り抜けている。左は、狭い市場にもバイクで入ってきて乗ったまま買い物をしている写真。

 トウアン君は、「ゆっくりゆっくり渡ってください。決して走らないでください」とくどいほど繰り返す。私たちはこんな所を一刻も早く抜け出したいから走りたくなるが、彼の誘導に従ってゆっくり渡る。

人形トウアン君がベトナムのバイク事情を説明してくれた。ハノイの人口が650万人に対し、バイクは300万台。10年前に来たときは5人乗りなどざらだったが、今は大人は2人しか乗れないと決められた。ヘルメットも義務化されたが、守っている人ばかりではない。

フリータイム後の集合場所は「水上人形劇場」である。ここは3年前にハノイ(雲南省・北部ベトナムの旅1参照)を訪れたときも来ているので2回目。旧市街の店には水上劇で使うような人形が並んでいた(左)。

 最初のとき、水上というから野外の湖上で演じるのかと思っていたが、案に相違して舞台は劇場だった。元々は、1000年も前から農民達が池や湖で上演していたというから、私の想像も間違ってはなかったのだ。人形達の動作がユーモラスでしかもダイナミック。2回目でも飽きなかった。海外でも公演しているだけあり芸の質も高く、以前も今回も満席だった。                                     <ハノイのシェラトンホテル泊>

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