ベトナム縦断の旅7 2010年4月3日(土)-10日目 朝食前に街並みウオッチングをしたが、収穫はなかった。怪しげな路地もない。通勤のオートバイの群れも10年前ほど迫力がない。なんといっても車が増えたし、6人乗りなど見なくなった。そのかわり、やたら大きなマスクをしている女性が目立つ。ホコリ除けではなく日焼けを避けるためらしい。珍しい光景といえば、やたら電線(左)がこんがらかっていることだ。 公園には朝からココナツジュース売りのおばあさんが数人いたが、私がちょっと頭を下げても笑顔もない。思えば10日間の縦断の旅で、笑顔のベトナム人はほとんどいなかった。「微笑みの国ベトナム」のキャッチフレーズはウソだ。あんなに激しい戦争を生き抜いて来たのだから、笑ってばかりもいられないのはよく分かる。 ホーチミン市内2日目の最初の見学は、統一公会堂。1966年に建てられた南ベトナムの元の大統領官邸である。1975年4月30日、北の解放軍の戦車がこの敷地に突入して、ベトナム戦争は終結した。このときの戦車が屋外に展示してあった。小さな子どもが戦車に乗って記念写真を撮っていた。両親も戦争を知らない世代である。戦闘機は撃ち落とした米軍のものを組み立てて展示。
当時よく名前を聞いていたグエン・バン・チュー大統領やグエン・カオ・キ副大統領は、屋上のヘリポートからヘリコプターに乗って、沖合に停泊しているアメリカの軍艦に逃げ、その後外国に亡命した。グエン・バン・チューは5年前にイギリスで亡くなったが、アメリカに住むグエン・カオ・キは、サンフランシスコのリトルサイゴンに住んでいるそうだ。 次は最大の問屋街のチョロンに行った。華僑とその子孫が住んでいるのでチャイナタウンとも呼ばれている。チョロンは映画「ラマン」の舞台になった地区。フランス人の少女と金持ちの華僑の青年との悲恋をえがいた作品で、映画の中のチョロンは、あやしげな雰囲気をかもし出していた。前回も今回も昼間歩いているので、映画の雰囲気は味わえずじまいだった。 土曜だからか下校途中のチャイナタウンの学校に通う中学生に会った。友達数人がグループをなして屋台で冷たいジュースや菓子を食べていた。学校生活は楽しいんだろうなと勝手に想像したが、塾に通っている子ども達も大勢いるというから、プレッシャーもあるのだろう。 白いアオザイを着た高校生は車窓からよく見た。前に着たときは学校が休みだったので見かけなかったが、今回はホイアンやホーチミンの街角で何度も見かけた。上下とも真っ白なので見ている者には清涼感があるが、着ている本人は暑いだろう。
庁舎前にはホーチミンが子どもを抱いた像がある。厳めしくない良い銅像だと思うが、ユイさんの話から想像するに、ホーチミン市民には愛されていないのかもしれない。飽きもせずにまたドンコイ通りを歩き、昨日に続きまたスーパーマーケットに行った。菓子類とベトナムのインスタントフォーをたくさん買い込んだ。最後は、フランス時代の1925年創業のマジェスティックホテルのロビーで、ベトナムコーヒーを飲んだ。ツアー同行者の先客もいたので一緒になって「楽しい旅だったわねえ」と締めくくり。
フリータイム後の集合はホテルに6時半だったが、きのうオーダーした洋服が出来上がる時刻の6時前に戻った。試着してみたら、パンツのウェストがゆるゆるだ。「これじゃあオーダーした意味がない」と騒いだところ、大急ぎで直すという。縫製は下請けにだしているので、近いとはいえ別の場所にある。30分で出来るのかと怪しんだが、なんと6時29分に縫い直したパンツが届いた。もう一回試着する暇がないのでそのまま日本に持ち帰ったが、ぴったりだった。ベトナム人の器用さは定評があり、和服の仕立てもベトナム人がやっている話を聞く。だから安心していたのだが、サイズ間違いはどうして起こったのだろう。それにしても早業と時間を守ったことに驚いた。 ベトナム航空は夜中に飛び立つ。出発までに充分の時間はあるのだが、ガイドやドライバーを長く拘束できないからか、何時間も前に空港に送り込まれてしまった。 4月4日(日)−11日目 ホーチミン発(0時5分)→ベトナム航空で成田着(7時50分) 旅に出る前に開花宣言が出ていた。もう終わっているだろうとあきらめていたが、高速バスで戻った横浜は、桜が満開だった。(2011年10月16日 記)
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