イエメンの旅2
 世界最古の摩天楼都市

2009年2月23日(月)-2日目

カタールの首都ドーハを観光後、イエメンに向かった。
ドーハ発(16時50分)→カタール航空でイエメンのサナア着(19時20分)。カタールとイエメンには時差がないので2時間半のフライト。

ドーハの豪華な空港に比べると見劣りするが、「はるばる来たぜーイエメンに」と口ずさみたくなる長閑な空港だ。標高2300bにあるので少し肌寒い。

 イエメン人ガイドのシャーミーさんが出迎えてくれた。ネットの旅行記でシャーミーさんの写真を見ていたので、初対面のような気がしない。シャーミーさんはこれから帰国まで実質10日間一緒だったが、誠実で面倒見がよく説明も的確だった。何より驚いたのは18名全員の名前をすぐ覚えて「○○さん元気ですか」など声をかけていたことだ。良いガイドに恵まれた。
                                            <サナアのタージシバホテル泊>

2月24日(火)−3日目

いよいよイエメン観光が始まる。私の旅先候補にイエメンはなく、アラビア半島の国という認識しかなかった。イエメンの首都すら知らなかった。ガイドブックにはサナアと出ているが、そのサナアすらサアナと言い間違える始末。モロッコとイスラエルとインドで一緒だった旅友のHさんに誘われての旅だったが「行ってよかった〜」と思っている。

 参加者は同じく旅友のSちゃんも含め総勢18名。男性は4名しかいなかった。女性の1人参加が圧倒的に多い。添乗員のDさんによると、「こうした僻地みたいな国に来るのは断然女性が多いんです。女性の方が好奇心が強いんですよ」。

 仲間には、国名すら聞いたことがないような場所に出かけている人がたくさんいた。100ヵ国を超えた人も多い。この女性パワーと好奇心を、日本社会で活用する手はないものかと真剣に思う。

帰国直後の3月15日に、世界遺産の町シバームで韓国人観光客4人とイエメン人ガイド1人が死亡した(左)。テロがあったのは「砂漠の摩天楼」と言われるシバーム(上の地図参照)を見下ろせる場所で、私たちも2月27日に訪れたばかりだ。襲われた時刻をみると、夕日に染まるシバームを見学する最中だったと思われる。

日本の新聞には報道が少ないからはっきりしないが、アルカイダによるテロという見方がもっぱらだ。アルカイダは、2004年から米国・英国とともに韓国を攻撃ターゲットに挙げている。韓国がイエメンに近いソマリアに「清海部隊」を派遣したことが、アルカイダを刺激したのだと。無差別だったのか、韓国人を狙ったものかわからないにしろ、私たちが危機一髪だったことは確かだ。「危ない国に行ったのだなあ」の思いはあるが、イエメンにいた10日間はテロの予感すらなかった

イエメンは西は紅海・南はアデン湾に面し、オマーンとサウジアラビアと国境を接している。面積は日本の1.4倍、人口は約2200万人。アラビア半島の国はオイルマネーで潤っている国が多いが、イエメンだけはその繁栄から取り残された最貧国である。そのこともあって、サウジアラビア・カタール・アメリカ・イギリスへの出稼ぎ者や移民者が約100万人もいる。

首都サナア観光の手始めは、国立博物館(左)。1962年までイマーム(イスラム教最高指導者)が住んでいた宮殿だけあり、外観や内部にもそれを感じさせる。日干しレンガに白い漆喰の窓枠がついたイエメン独特の建築だ。1962年はイエメンに革命が起こった年なので、1962という数字はこれからも何度も耳にすることになる。

イエメンの歴史を知らない私には、博物館の展示を見てもよく分からない。事前に勉強してこなかった罰が初日に表れてしまった。後に知ったイエメンの歴史をざっと書いてみる。もっとも紀元前の記述は書物によって違いがあり、どれが真実なのかわからない。

サナアは、「ノアの方舟」のノアの息子セムが最初に住み着いた所だとイエメン人は信じているが、ノアは旧約聖書の登場人物だから、歴史上の人物とは言えない。紀元前10世紀以前から南アラビア文明が栄えたという。エジプトとメソポタミアに挟まれた地域だから文明が栄えたというのも頷けるが、確固たる証拠はないようだ。

 ソロモンとの恋愛で名高い「シバの女王」の出身地だとこれまたイエメン人は信じている。宿泊したホテルの名もタージシバホテルだ。シバ王国は、他にもエチオピアなど諸説あるが、学者によると、シバの女王は北アラビアの部族の女性族長だったらしい。(ニコラス・クラップ著「シバの女王」−紀伊国屋書店−による)。

9世紀頃からイスラム教ザイート派(シーア派)の宗教指導者が支配。16〜17世紀はオスマントルコが支配。1918年にイエメン王国がトルコから独立。

1962年に革命が起こりイエメン・アラブ共和国(旧北イエメン)樹立。1967年にイギリスから南イエメン人民共和国が独立し、7年後に共産主義政権のイエメン民主人民共和国(旧南イエメン)樹立。しばらく南北に分裂していたが1990年に南北が統一しイエメン共和国が成立した。

イエメンが統一したのは、東西ドイツの統一や社会主義国の崩壊とほぼ重なる。偶然ではないような気がする。

本題に戻る。古代王国時代の展示物もあったが、歴史を知らないうえに写真撮影も禁止だったので印象に残っていない。オイルランプだけはよく覚えている。アラビアンナイトの「アラジンと不思議なランプ」のランプはこんなだったのだなあと、ただそれだけのことだが、旅行会社のパンフレットにある「アラビアンナイトの世界」を垣間見て嬉しかった。

博物館を見ている最中に、日本人が珍しいのかイエメンの記者から取材を受けた。着いたばかりだというのに「イエメンの印象は」など聞いてくる。イエメンだけで7回目という添乗員さんが「時の流れがゆっくりしているのが良い」など答えていた。観光を促進していこうという意気込みを感じたが、なにより旅行者の安全を確保してくれないと困る。

 博物館の外側に大きな人物写真がかかげられてあった。今後たびたび目にすることになる64歳のサレハ大統領の肖像(左)だ。共産主義時代の毛沢東の肖像のようにあちこちに掲げられてある。大統領職に28年間。その前から権力者だったというから30年以上も権力を握っている。こうも長いと他の人は意見を言えないのではないかと他国ながら心配だが、2007年の直接選挙でも80%の支持を集めたという。ガイドのシャーミーさんも尊敬していると話していた。

 今日のお目当ての旧市街(左)に入った。東西1.5`南北1`の旧市街は、高さ12bの城壁で囲まれている。サナアの人口は150万人だが、旧市街にも5万人が住んでいる。


 旧市街の高層建築群には1000年前の建物もあるというから、「世界最古の摩天楼都市」も大げさではない。高層建築は5〜6階建てか8階建て。土台や1〜2階は花崗岩や玄武岩で作られ、1階は家畜用2階は食糧の貯蔵用。

 3階より上の人間の住居部分は、日干しレンガを積み重ねてある。鉄骨を使わずレンガを積み重ねただけなのに倒壊しないのは、地震がないからだろうか。日干しレンガだけなら茶色一色だが、窓枠に塗ってある漆喰(ヌーラ)の白さのアクセントが効いている。茶色と白が絶妙のコントラストだ。

 窓は埃や視線を避けるために小さく作ってあるが、窓の上には半円形のカマリア窓という明かり取りがある。赤・緑・黄・青など原色のガラスを嵌め込んであるが、外側から見ると色彩は見えない。部屋の中にいるとガラス窓が妖しく輝いている。

 こうしてみると、1986年という割と早い時期に世界遺産に指定されたことが納得できる摩天楼群だ。土地は十分にあるのに、東京の都心以上に密集しているのは、外敵から身を守るには狭い方が好都合だからだ。(2010年10月16日 記)

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