ベネルックス3国の旅 3
アンネフランクの隠れ家

 「・・さて、階段をのぼって、とっつきのドアをあけると、まず誰もがびっくりするでしよう。こんなに広くて、こんなに明るい部屋が、運河に面したこういう古い家の中にあるなんて、とても信じられません」。13歳の少女アンネフランクが、隠れ家の様子をこう日記に記したのは、1942年7月9日。隠れ家に入って4日目のことですナチによるユダヤ人狩りを逃れるためにドイツからオランダに移住してきたものの、ここも安全な地ではなくなり、急遽、隠れ家に住むことになった少女アンネ。

「アンネの日記」を初めて読んで以来、願い続けていた隠れ家訪問がやっと実現しました。「いつも長い行列が出来ている」とガイドブックにあるように、この日も御覧のような行列。入り口には、日本語はじめ、数カ国語のパンフレットが置いてあり、「アンネの日記」が世界中の人に読まれていることを思い起こさせてくれます。

 本棚でカモフラージュされた入り口を入ると別世界です。室内は撮影禁止なので、これは絵葉書ですが、本棚を開けた状態での写真。フランク夫妻の部屋、アンネと歯医者の部屋、ファン・ペルスさん一家の部屋、急な階段の上はピーターの部屋。運河に面した表は事務所や倉庫として使っていましたが、奥には8名もが生活できるほどの部屋があったのです。

 間口の大小で税金が変わるアムステルダムでは、京都のように、うなぎの寝床の建物が多く、それは今でも住宅として使われています。表から隠れ家がわからなかったのも頷ける話。

 この隠れ家にたたずむと、実母とのいさかい、ペルスさん一家との葛藤、ピーターとの恋など「日記」の一文が鮮やかに蘇ってきます。隠れ家の住民がゲシュタポに逮捕されたのは、1944年8月4日。一歩も外に出られず、大声をあげることも出来なかった2年と1ヶ月。アンネは「こんなに広くて・・」と書いていますが、まだ他の家族が引っ越してくる前のこと。3家族が生活するには、あまりに狭い空間で、多少のいさかいは当然の気がしました。

 右の写真も絵葉書です。面しているのはプリンセン運河。尖塔を持つ高いビルは、アンネもよく音色聞いていた西教会。濃い緑の木の下に位置するビルが、アンネの家です。奥行きが深いことが、この写真でよくおわかりと思います。

 運河に面した表の部分は、今は博物館になっています。父親のオットー・フランクが、アンネ13歳の誕生日に送った赤い格子柄の「日記」の実物も展示されてありました。こうして実物が見られるのも、一人の女性のおかげ。一家が連行された後に、床に散乱していた数冊の日記を拾い、父親が生還するまで大事に保管していました。彼女がいなかったら、ゴミ箱行き。「アンネの日記」が世に出ることはなかったと思います。

 その女性は、オットーの会社で働くかたわら、家族ぐるみで親しくしていたウイーン生まれのオランダ人ミープさん。食べ物ばかりか本や花束を届けたのも彼女。もしナチに知れたら、自分の命も危ないのです。ミープさんの談話も画面で見ることができます。高齢ながらまだお元気とか。彼女の行動を知ると、「日記」を読む以上に、涙腺がゆるんでしまいます。もっとも、当時のオランダには、ユダヤ人を匿った人が2万人以上いたそうです。それだけナチを憎んでいたのですね。ミープ・ヒース著「思い出のアンネフランク」を、ぜひお読みください。「日記」の行間を埋める貴重な読み物だと思います。

感想・要望をどうぞ→
ベネルックス3国の旅1へ
次へ
ホームへ