ベネルックス3国の旅
               
               <1999年8月7日〜16日>

 1 日蘭交流400年
 2 海面より低い国・オランダ
 3 アンネフランクの隠れ家
 4 飾り窓の女
 5 数カ国語を話せるモニカさん
 6 EUの中心地・ベルギー
 7 フランダースの犬
 8 小便小僧・小便少女
 9 ワーテルローの戦い
10 皆既日食・ゲント
11 似ている国旗・ルクセンブルグ
12 日本人とカメラ


ベネルックス3国の旅 1
日蘭交流400年

 ベルギー、オランダ(ネーデルランド)、ルクセンブルクの頭を取った造語がベネルックス。地理的に近いのはもちろん、政治、経済面で密接な関係にあることから呼ばれています。

 ベネルックス3国を訪れたのは、EUのユーロがまだ流通していない3年前。陸続きのバス旅なので、国境があってないような3国を行ったり来たり。立ち寄った売店で使えるお金が、フラン(ベルギー、ルクセンブルク)か、ギルダー(オランダ)かで戸惑ったことも、今になれば楽しい思い出。それ以外は、さほど古い情報でもなかろうと、3年前の旅を綴っていきます。

 
左の写真は、オランダのマーストリヒトのトイレにあった通貨別チップの目安です。上から3つ目のルクセンブルク以外は、日韓ワールドカップ出場国なので、お分かりですね。ここを訪れる客の上位9カ国に、日本は入っていないのか、円での支払いはお断りなのか。

 オランダ最南端のマーストリヒトは、ドイツとベルギーの間に、まるで袋小路のように入り込んでいる国境の街。「一歩踏み出せば隣の国」、しかも言葉も通貨も違うとなると、島国日本人とは人生観まで違うのでは・・と想像しています。ユーロ統一は、旅行者には便利ですが住民にはどうなのでしょう。アメリカのCent以外使われていない今になると、この写真は貴重だと思いませんか。ここは、マーストリヒト条約(1992年にEU発足を正式に決めた条約)を結んだ地としても有名です。

 まずは、日本と縁が深いオランダから。ほぼ400年前の1600年4月19日、オランダのリーフデ号が豊後(大分)に漂着。このニュースを大阪城で聞いた家康は、プロテスタントの国・オランダに関心を示し、ウイリアムアダムスとヤンヨーステンと対面。これが縁で、2人は幕府の貿易顧問になります。航海士だったアダムスは三浦半島に土地をもらい、三浦按針と名乗り、ヤンヨーステンの名も、居住地だった八重洲に残っています。

 「1600年と言えば、関ヶ原」ですが、天下分け目の戦いは9月15日。オランダ船が漂着したのは、半年前。徳川家康は豊臣秀頼を補佐する名目で大阪城にいたのでした。ちょっとした歴史の綾ですね。

  鎖国中も、唯一交易を許されたのがオランダ。商館長(カピタン)は、商売ばかりでなく、西洋事情を幕府に報告していました。鎖国中といえども海外事情をある程度知ることができたのは、このためです。レッテル、ランドセル、ホック、ネル、ドロップ、マドロス、ソーダなどなじみ深い外来語は、オランダ語。

 杉田玄白が解剖書を翻訳したことから蘭学が盛んになり、幕末には、シーボルトが医学や植物学を教授。シーボルトの鳴滝塾から巣立った多くの若者が、近代日本の礎を築いていくことになります。江戸期に比べ明治以降の関係はやや希薄になりますが、なにはともあれ、交流は400年にもなります。

 
江戸時代にオランダ人が住んでいた、というより押し込められていたのが、長崎の出島。市内と橋で結ばれた扇形の人工の島です。わずか15000uの小さい島に、カピタン以下、十数人の商館員が常駐していたそうです。

 歴史の教科書で見慣れている出島ですが、以前訪れた時には島の面影もなく、当時をしのぶよすがは何もありませんでした。ところが、去年の長崎旅行で、復元中の出島に出会えたのです。まだ完成していませんが、かなりの建物が復元されています。中華街のすぐ近くですから、交通の便もいいですよ。

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