ベネルックス3国の旅 9
ワーテルローの戦い

 
ナポレオン敗退の戦場ワーテルローは、ブリュッセルから南へ17qの地にあります。明智光秀の3日天下、ナポレオンの100日天下など英雄の最期には何やら心ざわめき、激戦地に立ってみたい気持ちは以前からありました。

 1804年に皇帝にまで上りつめたナポレオンですが、スペイン侵略とモスクワ遠征に失敗し、1814年にエルバ島へ。翌1815年の3月にエルバ島を脱出しパリへ凱旋。ワーテルローの戦いは6月18日午前11時頃。ウエリントン率いるイギリス軍68000人とナポレオン軍72000人の戦いは、ナポレオンが勝利目前。そこにブリッヒャー率いるプロイセン軍65000人が到着し、ナポレオン軍はじりじり後退し、夕刻には敗走。100日天下は終わりを告げたのでした。写真は両軍の陣形。青がナポレオン軍。

 現在はベルギーに属している地ですが、戦い当時はベルギーという国はなく、ワーテルローはフランスに占領されていました。フランスに勝利後もオランダに占領され、今のベルギーが独立したのは1830年のこと。ヨーロッパ史は、現在の国の範疇で考えると、理解しがたいのですが、ここらも込み入っているので、わかりにくい所です。

 勝利を記念して、オランダが「ライオンの丘」を造ったのは、勝利からわずか10年後の1824年。226段の階段を登った頂上には、ナポレオン軍が残した大砲で鋳造したライオン像がにらみをきかせています。にらむ先は、もちろんフランス。眼下には、フランドル地方の長閑な田園地帯が広がり、ヨーロッパ史を変えるほどの激戦地だった面影は皆無。20万人が戦い、死者を5万人も出したほどの戦いを忘れさせる、目に優しい緑が広がっていました。

 丘のふもとには記念館がありますが、土産グッズはナポレオンのものがほとんどで、勝者ウエリントンのものはわずか。敵国大将のグッズをこれほど置いてあるのも面白いですね。いまだ衰えない敗者ナポレオンの人気のほどがわかりました。全景が撮りにくかったので、ここで買った絵葉書をどうぞ。

 
ナポレオンに勝利したことは、ヨーロッパ人にとって、私たちが考える以上に、誇らしいことのようですね。「ロシアでは、化学者でも、ナポレオンを破ったのが1812年だと正確な年号を言えるんで驚いたよ」と、モスクワでの経験を兄が話していたことがあります。

 ワーテルローで、完全にナポレオンをうち負かした立て役者、イギリスのはしゃぎようは言うまでもありません。ウエリントン将軍の棺は、ロンドンのセントポール寺院の地下に安置されていますが、ひときわ立派。テムズ川にかかる橋や、地下鉄・鉄道の駅にも「waterloo」の名がついているほどです。

 ビビアンリー主演の映画「哀愁」の原題は「Waterloo Bridge」です。映画が大好きだった私は、ウオーターローブリッジという原題は知っていました。世界史で習う「ワーテルローの戦い」も必修項目。ところが、この二つを結びつけて考えたことはなかったのです。ウオータールーとワーテルローが、読み方の違いにすぎないと気づいたのは、ほんの十数年前。小学生でもwaterをウオーターと読めるほど、日本では英語読みが一般的ですが、ローマ字的に読むと、waterlooは、ワーテルローですよね。

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