100回 

  忠犬ハチ公と上野博士

2003年に「行きあたりばったり銅像めぐり」を始めてから13年が過ぎた。出会った銅像すべてを取り上げていたら200回を超えていると思うが、気持ちが乗らないと書かないのでスローペースだが100回を迎えた。

100回に取り上げるのは、西郷隆盛像か忠犬ハチ公像と決めていた。私好みの銅像ではないが、4000体以上ある日本の銅像のなかで、人気度や知名度で群を抜いているからだ。

動物のハチ公を銅像の仲間に入れるのもなんだなあと思うが、「日本銅像探偵団」の管理人・ヒロ男爵さんが定義(下のア~キ)している銅像には合致する。ちなみに、日本銅像探偵団のサイトは何度もメディアに登場していて、ヒロ男爵さん自身もテレビや雑誌で語っている。

(ア)固有名詞のある人物、動物であること。
(イ)モデルの人物が特定できる銅像であること。
(ウ)伝説上の人物・神は対象とする。
(エ)量産タイプの宗教開祖や思想の象徴とする人物は対象外とする。ただしオリジナリティのある銅像であれば対象とする。
(オ)アニメのキャラクターは対象とする。
(カ)基本的に材質は銅で作られた像だが、一部FRP像も銅像と見なす。
(キ)霊園・墓地に個人的に建立されている銅像は対象外


渋谷駅前のハチ公(左)は、待ち合わせ場所なのでいつもたくさんの人に囲まれている。写真を撮る外国人が、順番待ちということも多い。ヘレンケラーもリチャードギアも訪れている。だから背景に人が写らない瞬間を待つのは少し大変だった。


さて、今回の主人公はハチ公と飼い主の上野英三郎博士(1872~1925)。ハチ公を飼っていたころは、東大農学部の教授だった。上野博士の胸像(左)が、東大農学部の弥生キャンパスの農学資料館にある。

「銅像歴史散歩」の著者・墨さんに「ハチ公の飼い主だったというだけで、銅像になるなんてオカシクないですか」と疑問をぶつけたら「上野博士の農学博士としての業績は素晴らしいんですよ。農業土木学のパイオニアです。いびつの農地を農業機械が効率よく動けるように長方形の区画に造り変えたんです。ハチ公よりはるかに歴史に名を残すにふさわしい」と、力説してくれた。

上野博士はすでに2頭の犬を飼っていたのに、さらに秋田犬の子犬が欲しいと希望。生後2か月の秋田犬が、1924(大正13)年1月、秋田県の大館駅から米俵にいれられて上野駅に到着した。付き添ってきた人もいるから、お犬さまの輿入れみたいなものだ。当時はペットショップなどなかったのだろうか。

上野博士の自宅は、東京府豊多摩郡渋谷町(今の渋谷区松濤)。東大農学部は本郷ではなく駒場にあったので、自宅と職場は近い。歩いても行ける距離だ。関東大震災後に、農学部は第一高等学校と敷地を交換して今の本郷の弥生キャンパスに移転した。

ハチの運命が一変するのは翌年の5月。上野博士は大学で脳溢血で倒れ53歳の若さで急逝した。その後ハチは日本橋や浅草など数軒をたらいまわしされ、最後は上野宅に出入りしていた代々木の植木職人に預けられた。ハチが渋谷に近い植木職人の家に落ち着いたのは、博士の死後2年も経ったころだ。

ハチの姿が渋谷駅で見られるようになったのは、植木職人の家に来てからだという。その前にいた日本橋や浅草からでは遠すぎる。渋谷駅周辺の屋台の残り物が目当てで、毎日来ていたのではという憶測も成り立つ。この事からしても、ハチが博士の帰りを何年も待ち続けた話は、なにやらウソくさい

大学のある駒場と松濤は歩いても近い。JRの渋谷は出張などで使う事はあっても、毎日使っていた駅ではない。

渋谷駅をぶらついていた頃のハチは、通行人にはむしろ嫌われ犬だった。ところが、1932年に「いとしや老犬物語」の記事が新聞に出ると、軍国主義の風潮とあいまって、主人に忠義をつくす忠犬が注目を集めた。1934年にはハチ公の銅像が設置。なんと!除幕式にはハチ公も参列したというから驚く。忠犬ハチ公を見習えとばかり、修身の教科書にも採用された。

ハチが死んだのは翌年の1935年。渋谷駅で盛大な告別式が行われ、博士の妻や植木職人も出席した。16人の僧侶による読経、花輪、電報、香典が多数寄せられたそうだ。「いやはや」としか言いようがない。

軍国主義の精神を具現した像にもかかわらず、太平洋戦争時に金属供出で回収されてしまった。戦後になって、外国人からの問い合わせが多くなり、1948年には2代目の像が作られた。初代銅像作家の安藤照が亡くなっていたので、長男の安藤士が制作した。今、私たちが見ている像は、1948年作のものだ。

1989年に駅前広場の改修に伴い北向きが東向きに変えられた。渋谷駅始発の私鉄を長年利用している私は、北向きの頃から知っている。当時の写真がないものかと探したが、首都圏に住む者にとっては写真に収めるほどの銅像ではなかったのだ。HPを作るなど考えもしない頃だ。

1年前の2015年、東大の本郷の農学部キャンパス内にハチ公と上野博士のツーショット銅像が設置された(左)。「納まるべきところに銅像ができた」という記事もあったが、ここは前にも書いたように上野博士が勤務していた場所ではない。まして、ハチが訪れたことはないだろう。でも、じゃれあっている様子が微笑まく心和む銅像だと思う。

10年も主人を待ち続けたのはウソくさい・・と言いながらも、美談としてこうして語り伝えられるのは良い事かもしれない。この銅像があっても誰にも迷惑をかけないのだから。

たくさんの日本人ばかりか、外国人にも人気がある像にあえてケチをつけるつもりもない。でも設置されたいきさつを知ると、世相やさまざまな思惑が見えてくる。どんな銅像にもこうした背景があるはずだ。これからはそういう視点で銅像めぐりをしていきたい。

この像は農学部の門を入って左側にある.が、門の右側には前述した農学資料館が建っている。こじんまりとしているが、農学関係の資料が展示されている。入館は無料。

その資料館に、ハチ公の臓器が展示されてあった。私は訪れるまでハチ公が解剖されたことなど知らなかったので、びっくりした。次の写真をごらんいただきたい。解剖によって死因はフィラリアだと分かった。

 
ハチ公の臓器
 
左が肝臓、右が心臓と肺
心臓にフィラリアが寄生している


解剖した後は、国立科学博物館(上野駅から徒歩5分)で剥製にされた。博物館には、ハチが剥製になって展示されているという。ここまできたら剥製も見なずばなるまいと、科学博物館まで行って来た。子どもが小さい時以来の久しぶりの博物館は、すっかりリニューアルされ楽しい展示物であふれていた。ボランティアガイドも各フロアにいて気軽に説明してくれる。

ハチは日本館の2階にいる。ハチ公の展示というより「犬は人間の伴侶」という扱いなので、ハチ公の字は小さく載っているだけだ。同じコーナーに、桃太郎のお供をした犬の絵や無人の南極の昭和基地でタローと共に生き延びたジローの剥製もあった。

 
見慣れているハチ公の銅像に比べ
実物はびっくりするほど大きくて貫録がある

 
同じコーナーに桃太郎の挿絵(犬が衣服をまとっている)と
南極の昭和基地で越冬したジローのはく製もある。


博物館のフロアにいたボランティアガイドが「ハチの剥製を作ったのは科学博物館の専門職ですが、今は剥製は外注しています」と教えてくれた。それにしても、解剖をして剥製にしあげた理由は何だったのだろう。「忠犬」を粗末にできない当時の世相ゆえなのだろうか。

ところで、忠犬ハチ公と上野博士の物語はまだ続く。2016年5月20日の新聞切り抜きを博物館のガイドが見せてくれた。ハチ公関連の記事が大きく載っている。

それによると、上野博士と奥様八重子さんは、故あって正式な夫婦ではなかった。そのため、博士が亡くなったあと八重子夫人は松濤の家を出なければならなかった。博士の死後にハチ公がたらい回しされた理由がこれで分かった。奥様が飼えばいいのにと不思議に思っていたが、疑問が解けた。

八重子夫人は1961年まで存命だったが、博士と同じ墓には入れなかった。「ハチにとって博士が父なら八重子さんは母」と考える教え子たちの尽力で、合祀が可能になった。5月19日の墓参会には遺族や関係者20名が集まって、八重子夫人の遺骨が納められた。

よく知られているように、ハチの墓は博士の隣にある。犬が一緒なのに奥様が合祀されていないなど、この新聞記事を読むまで思いもよらなかった。

この話を聞いたからには、青山霊園(地下鉄銀座線の外苑前か青山一丁目下車)まで行かずばなるまい。墓石に奥様の名前でも彫ってあるのかと思いきや、以前訪れた時と何も変わっていなかった(左)。

東京にあるハチ公関連の場所はこの4か所(渋谷駅前・東大農学部キャンパス・上野の科学博物館・青山霊園)。他にも、ハチの生まれ故郷秋田県大館と、上野博士のふるさと津市(近鉄久居駅)にも銅像が建っている。写真で見ただけなので、機会があれば行ってみたいものだ。

100回記念に犬の銅像はいかがものかと少しは躊躇したが、これだけ存在感のある犬は珍しい。そういえば、秋田県がプーチン大統領に贈った秋田犬は、プーチンがとても可愛がっているようだ。海外でも日本犬に人気が出ているという話も聞いた。     (2016年9月23日 記)

感想を書いてくださると嬉しいな→
銅像めぐり1へ
ホームへ