エジプトの旅 11
2人の女王・ハトシェプストとクレオパトラ

 この写真を見て、1997年に起きた事件を思い出す方も多いでしょう。イスラム過激派に襲撃されて、新婚旅行中の日本人が犠牲になった舞台が、ここハトシェプスト女王葬祭殿です。

 ツタンカーメンの墓など、「王家の谷」があるルクソールの西岸には、いくつかの葬祭殿がありますが、そのひとつ。岩を切り開いて作られた幾何学的な建物に感嘆してしまいます。

 ハトシェプスト女王の即位は、BC1500年頃。義理の息子トトメス3世の摂政となって、事実上の権力を掌握しました。トトメス3世は、後に「エジプトのナポレオン」と呼ばれたように、彼の時にエジプトの領土は最大に。

 だからハトシェプスト女王は、エジプト絶頂期の女王と言えます。神殿の壁画の彩色も比較的残っていて、女王誕生から即位までの絵や、オベリスクを大船で輸送する様子も描かれています。

 ハトシェプスト女王が最盛期の女王ならば、クレオパトラは末期の女王です。日本人には、いちばん馴染みのあるファラオですが、エジプトでは意外にも知られていないと、聞きました。

 「クレオパトラの宮殿跡をフランスの調査隊が発見−アレキサンドリアの港の海底から−」と報道(左は朝日新聞の写真)されたのは、1996年11月4日。この日はエジプトにいたのに、小耳に挟むこともなく、帰国してから知りました。

 大地震で宮殿がまるごと沈没したと考えられています。当時のアレキサンドリアは、地中海世界の中心として、非常に繁栄していました。クレオパトラが、絨毯に隠れてシーザーに出会った宮殿だと思うと、ワクワクしてきますね。

 アレキサンドリアはアレキサンダー大王が建設した町。大王急死後に帝国は分裂し、エジプトを統治したのは、武将のひとりプトレマイオスでした。クレオパトラは、彼が開いた王朝・プトレマイオス朝の最後の女王です。エジプトの女王と聞いて、目鼻立ちは美人ながらも、肌が浅黒い女王を思い浮かべませんか。映画でクレオパトラを演じたエリザベス・テーラーやビビアン・りーは、ちと違うなと思っていましたが、クレオパトラは、ギリシア人。ギリシア系なら、何ら違和感はないですね。

 末期の女王ですから、彼女のレリーフや像が少ないのは当然とも言えます。右の写真は、「このレリーフはクレオパトラです」の現地ガイドの説明で撮ったものです。エドフという町にあるホルス神殿の壁画に彫られています。

 日本のガイドブックには、「デンデラのハトホル神殿の壁にあるレリーフが唯一のクレオパトラ像」とあります。デンデラ(ルクソールからちょっと下流)には立ち寄らなかったので、写真はありませんが、これと似たようなもの。

 「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら世界の歴史は変わっていた」は、パスカルの言葉。シェークスピアも「アントニーとクレオパトラ」を書いています。ヨーロッパで人気が高いクレオパトラも、エジプトでは不人気。おもしろいものですね。

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