エジプトの旅 12
ピラミッドを作ったエジプト人はどこに?

 遺跡を中心に書いてきたので、現在のエジプト人の様子をお話する機会がありませんでした。最後に、スナップを見てください。

 左の写真は、南部のアスワン近くに住むヌビア人の男の子。カイロあたりの子供達より、色が黒いようです。

 右は、カイロ市内。カイロは大都会なので、ジーンズ姿の現代風の女性も大勢いますが、このような姿も。

 左下はロバで荷物を運ぶ男。カイロの街は、ベンツも走っていれば、ロバの荷車も道路を占拠しています。この3枚は、父のアルバムに貼ってあったもの。27年も前のスナップですが、私が訪れた時とほとんど変わりませんよ。

 右下はガラベーヤという長い衣装を着た男達。ルクソールやアスワンなど田舎には、ガラベーヤ姿の男達が大勢います。

 訪れたのは11月でしたが、南下するにつれ、ノースリーブでもいいほどの暑さ。でも、彼らは毛糸のマフラーを巻いています。暑さ・寒さの感覚が私たちと違うのですね。ガイドのサウサンさんも、毛糸のセーターを着ていました。


 左は、登校中の女学生。このように、女学校に行ける子供達は幸せなのです。地方では、学校にも行かせてもらえず、15歳ぐらいで結婚させられる女の子が多いという話でした。

 今のエジプトには、キャンディをねだる子もいれば、偽のパピルスや安物グッズを売りつける子供達も大勢。義務教育すら受けられない場合も。そうかと思うと、サウサンさんの子供のように、スポーツジムに通ったり、家庭教師につくなど恵まれた子供もいます。ありていに言えば、貧富の差が激しいのでしょう。都会と地方の格差もあります。イスラム過激集団が生まれても仕方ない環境とも言えます。

 ウロウロしている子供や大人を見ていると、ピラミッドを作った偉大なエジプト人は、どこへ行ってしまったのだと思わないではありません。

 古代エジプトの末期には、ペルシャ帝国、アレキサンダー帝国、アッシリア、ローマに支配されたので、種々の人種が混合しています。7世紀にはアラブ人が侵入。ますます人種は混じりました。でも原住民の数に比べれば、征服者の数はしれたもの。7世紀以降は、アラビア語・文字に替わったので、人種まで入れ替わったと勘違いしてしまいますが、虐殺された記録もないので、ピラミッドを作った人種が消えたわけではないのです。

 エジプト5000年の歴史を見ると、後進国だった期間は短く、少なくとも3回は世界の中心でした。1回目は、もちろん古代エジプト。2回目は、グレコローマン時代。アレキサンドリアは地中海世界の中心地。ヘレニズム文化が栄え、ユークリッド幾何学など学問も盛んでした。3回目は10世紀頃のイスラム時代。エジプトはアラブ世界の中心の一つ。アラビア科学がヨーロッパにもたらされ、産業革命やルネッサンスを生んだのです。

 こんな時期があったのですもの。今後、世界の中心にならないとも限りません。エジプトに声援を送りつつ、エジプトの旅を終わりにしたいと思います。
(2002年12月26日 記)

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