エジプトの旅 4
ツタンカーメンの墓

 カイロから600q南下したルクソールは、新王国時代にテーベという都が置かれたところ。ナイル川をはさみ、東にカルナック神殿やアメン神殿、西に死者の町が広がっているエジプト有数の観光地です。太陽が沈む西に墓があり、太陽が昇る東に神殿が建つというわかりやすい構図は、エジプトのほぼどこでも見られる光景です。

 ルクソールの西側には、ファラオ(王)ばかりでなく、王妃、王子、貴族、高級官僚、神官など支配者階級の墓だけでも800以上あり、一帯は「王家の谷」「王妃の谷」・・と呼ばれています。墓のほとんどが地下にあるために、草木もなければ、ビルもなく、ただただ茶色の世界。もちろん住民の姿もありません。上の写真のように、まさに「死者の町」です。

 800ある墓のすべてに描かれている壁画は、美術作品として優れているばかりでなく、当時の生活を知る上でも役だっています。私たちが入った墓は、ツタンカーメンなど3墓だけですが、棺が置いてある玄室はもちろん、入り口から玄室に向かう道の両側でさえ、極彩色の壁画で覆われていました。左の写真は、ラムセス9世の墓の壁画。カメラ代を払えば撮影可能でした。
 
 ツタンカーメンの名は今でこそ知らない人は少ないと思いますが、以前は全く無名のファラオでした。墓の存在を信じていたイギリス人カーターが、カーナボン卿から金銭的援助を受けて、数年がかりで墓の入り口を見つけたのでした。1922年11月4日。ちょうど80年前のことです。発掘にまつわる苦労話や「ファラオの呪い」などの逸話に関する本は、たくさん出版されています。
 
 見えにくい場所にあったために盗掘されずに、副葬品の数々がそのまま残りました。無名でしかも17歳で急死したファラオでも、これほど豪華な副葬品。ラムセス2世やトトメス3世など強大ファラオの場合は、いかばかりかと思います。

 ツタンカーメンの墓では、副葬品以外に、花束やエンドウ豆も見つかっています。その豆は、1956年にアメリカ経由で日本にもたらされ、「ツタンカーメンのえんどう」として、日本でも繁殖しています。私も友達に分けてもらい、プランターに植えました。縄文時代の「大賀蓮」もきれいですが、「3300年前のツタンカーメンの豆ご飯」は、ほんのり紫色に色づき、美味でした。

 カイロの考古学博物館には、ツタンカーメンの特別展示室があり、これを見ずしてエジプトを語るなかれと言いたくなるほど豪華絢爛。最近ひんぱんに日本で開かれるエジプト展には出品されないものばかりです。カイロにいらしたら必見ですよ。写真は言うまでもなく「ツタンカーメンの黄金のマスク」。

 さて、墓の内部ですが、入り口も狭く、心なしか黴くさいのですが、3300年前の空気を吸っていると思えば、なんのその。他のファラオの墓と違い、ここだけは撮影禁止で、何やら特別扱い。絵葉書で玄室をご覧下さい。長いこと人の目にふれなかったので、色もきれいですよ。実際に王のミイラが入っていると聞きましたが、マスクをかぶっているので、ミイラとのご対面は出来ませんでした。

 クフ王はおよそ4500年前、ツタンカーメン王はおよそ3300年前。2人の間には1200年もへだたりがあります。ピラミッドと壁画の混同は、1200年の歴史を無視したことだったのでした。
(2002年11月2日記)

感想・要望をどうぞ→
エジプトの旅 1へ
次へ
ホームへ