エジプトの旅 7
オベリスクを見ると世界史がわかる

 現存しているオベリスクは20数本。そのうちエジプトに残っているのは、数本にすぎず、ほとんどが海外へ流出しています。

 1本は、トルコのイスタンブールの競馬場跡に立っています。写真をご覧下さい。背後に丸屋根のモスクが見えますが、ミスマッチでもありませんね。ここに運ばれたのは、ローマ帝国の最盛期。当時は、トルコもエジプトもローマ帝国の支配下にあり、エジプトからイスタンブールへの移動は、帝国内でのこと.。略奪という意識はなかったのでしょう。

 ローマ帝国の本拠地ローマには、初代皇帝アウグスツスをはじめ歴代の皇帝が運び出したものが、積もりに積もってなんと13本!エジプトを支配下に置いていたとはいえ、元の場所から簡単に移すのは、宗教や文化に対する冒涜ですよね。例えば、伊勢神宮の大鳥居が、どこかの国へ運ばれることを想像するのは、気分の良いものではありませんから。

 ローマを自由に歩き回ったことがありますが、バチカン市国のサンピエトロ広場に立つオベリスクしか思い出せません。他の12本はどこに・・とアルバムや本をめくってみると、有名なスペイン広場、パンテオン広場、クイリナーレの丘、ポポロ広場などに、あるはあるは。それと知らずに見ていたのでした。

ミネルバ広場では、自分で写しておきながら、これがオベリスクと気づかなかったお粗末さ。ご覧のように、頂上に十字架がついたり、土台に象の彫刻があったので、気づかなかったのです。16世紀に、あらたに街作りをしたときに、放り出されてあったオベリスクを広場の中心にそえて、加工し直したそうです。

 時代はずっと下って1829年に、エジプトの支配者アリが、先進国の援助が欲しくて、フランスにラムセス2世のオベリスクを贈呈。当時はフランス人・シャンポリオンが、ヒエログリフを解読した直後。ヨーロッパ中に、エジプトブームが起こり、オベリスクを贈られたフランスは大喜びだったそうです。

 「なんて馬鹿なことを」と思う半面、明治維新の頃に日本文化の数々が只同然で流出したことを思い合わせると、アリの気持ちがわからないでもありませんね。それがパリのコンコルド広場中央に立っているものです。

 当時のエジプトは、国民のほとんどがイスラム教を信じるイスラム国家だったので、古代エジプトにさしたる興味もなく、近代化こそが、大事だったのでしょう。ラムセス2世の業績が彫られた記念碑など、単なる石ころみたいに思ったかもしれません。

 同じ時にロンドンに、少し遅れてニューヨークにもプレゼントしました。ロンドンやニューヨークを歩き回った頃は、オベリスクに関心がなかったこともあり、見損ないました。近所に住む友達が、わざわざ訪ねて撮ってきてくれた写真をどうぞ。右がニューヨークのセントラルパーク、左はロンドン市内のもの。

 100数十年前の技術をもってしても、パリ・ロンドン・ニューヨークに、長くて重いオベリスクを運搬するのは、至難の業。イギリスでは、運搬方法に良い案がなく、長いことアレキサンドリアの港に放置したままでした。ロンドンに到着したのは、贈られてから50年後の1878年。

 「オベリスクを見ると世界史がわかる」は私が思いついたフレーズにすぎませんが、気に入っています。ローマやイスタンブールに運ばれたのは1世紀から3世紀頃。ローマ帝国の繁栄を表しています。パリ・ロンドン・ニューヨークに贈られたのは、19世紀。フランスやイギリスは強大でした。日本に1本もないのは、地理的に遠いばかりでなく、初めてエジプトの地をふんだのが、1863年の遣欧使節ですから、無理もありませんね。

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