バルト3国の旅 3 2015年7月3日−5日目 6時20分頃シャウレイにある十字架の丘(左)へ。日本ならそろそろ日没だが、太陽が高くて暑いぐらいだ。 途中でラトビアに入国。日本の県境のようなもので、なんの印もない。ラトビアは43%が森林なので、ラトビアに入ったら草原というより林が多くなってきた。麦畑やじゃがいも畑もところどころにある。 2日目と同じホテルに入ったのは9時半になっていた。 7月4日(土)-6日目 リガの市内は3日前に見ているので、今日は50km離れたスイグルダへ行く。嬉しいことに日本で勉強したことがあるラトビア人の男性イルさんがガイドしてくれる。大学の先生のような風貌だが、ガイド業の管理職をしているらしい。車中でラトビアの現状を話してくれた。
フリータイムの時にイルさんに聞いてみた。「人間の鎖には参加しましたか」「ぼくは30歳でしたが参加しました。30分ほどで終わりましたが、感動的な手つなぎでしたよ」。ツアーでは現地の人の生の声は聞けない。もしフリーで旅をしても語学力が不足しているから心の中のまでは聞けない。イルさんに会えたのは幸せだった。 昼食後、ラトビアを出国してエストニアのパルヌへ195q移動した。パルヌ(バルト3国の旅1の地図参照)はハンザ同盟時代に拠点になった都市だ。ドライバーの出身地なので、細かい道もよく知っていた。パルヌ散策は30分しかなかったが、リゾート客で賑わっていた。タリン門(左)とエリザベート教会の外観や土産物屋をのぞくだけで終わった。 パルヌから130q走りタリンへ。初日に泊まったと同じホテルに戻ってきた。行ったり来たりの行程は、タリンとヘルシンキを結ぶフェリーに往復乗ると安いとか、ヘルシンキ往復のJALを使うと安いとか、そんな理由だと思う。競争が激しい旅行会社の苦肉の策のような気がする。 ホテルに到着後、夕食をとるために旧市街まで歩いた。ホテルと旧市街は割と近いので、明日のフリータイムが楽しみだ。 夕食のレストランで、仲間ふたりの誕生日を祝った。ひとりは84歳の男性。ひとりは64歳の女性。誕生日でもないと年齢を明かす人は少ないが、特に84歳の方は誇らしげだ。今回は80歳以上の方が3人もいた。前回行った南部アフリカの旅では、私たちが最高齢だと思うが、ヨーロッパの旅には90歳を超えた人も珍しくないという。 添乗員さんが「手品とか楽器とか特技のある方は盛り上げてください」と数日前から話していたので、夫が手品をいくつか披露した。なんの用意もしていないので、ライターや紙コップなどを少し苦労して調達した。半数は喜んでくれたが、迷惑だった人もいたかもしれない。 <タリンのパークインホテル泊> まずタリンの郊外へ行った。カドリオルク公園にはロシアのエカテリーナの夏の宮殿がある。大北方戦争でバルトを手にしたピョートル大帝がエカテリーナ妃のために建てたバロック様式の離宮。もちろん、今は宮殿としては使われず美術館になっている。
5年に1度歌の祭典が開かれる歌の原はエストニアの人たちの思いが込められた場所だ。1988年9月11日30万人以上が集まってソ連に禁止されていた国歌を歌い、独立への思いを表した。これが次の年の「人間の鎖」のきっかけにもなった。そして1991年の独立宣言を迎える。 次はピリタという海岸へ。1987年のモスクワオリンピックのとき、レガッタ競技が行われた海だ。当時はソ連邦の一員だったので、タリンにも会場のおすそ分けがあった。 郊外から旧市街に戻ってきた。まずアレクサンドル・ネフスキー教会へ。1901年に帝政ロシアが建立した。内部には日露戦争で犠牲になったエストニア人の名前が彫ってあった。
聖ニコラス教会は船乗りの守護聖人ニコラスを祀ってドイツ人が建立。1944年にソ連によって破壊され、今は博物館だ。祭壇の二重の観音開きの扉や「死のダンス」という有名な絵が飾ってあった。(タリン市内はつづく) (2016年11月2日 記) 感想・要望をどうぞ→ 次(タリンの旧市街)へ バルト3国の旅1へ ホームへ |