スロベニア・クロアチアの旅 2

2004年8月12日(木)-3日目

朝食前にブレッド湖畔を散歩した。犬を散歩させている人に出会っただけで、昨日の賑わいが嘘のようだ。小島と聖マリア教会が朝日に輝き、湖面に反射していた。民宿や民家の窓には赤い花が飾られ、スイス、ドイツで感激したと同じ風景がここにも広がっていた。

8時に出発。ポストイナ鍾乳洞に向かう。世界で3番目の大きさで27㎞におよぶ洞窟だというが、すべてを見るわけでもないので、何番目であろうと、鍾乳石の神秘さはたいして変わらない。

ガイドが待つ見学地までの2㎞は、トロッコで行った。たまたまトロッコの隣に座った人に「どこにお住まいですか」と聞いた。ツアーで一緒になった人と最初に交わす常套句だ。これならプライバシーに触れることもないからだ。Bさんの答えは「仙台からです」。「あら私も仙台出身」と話が進み、トロッコに乗っているわずかの間に、同じ高校の25年後輩だとわかり、手を取り合ってその偶然に喜んだ。ツアーの間にいろいろ話していると、共に教えてもらった先生が3人も。25年も隔たりがあるのに、同じ教師に習った事に驚いた。


英語ガイドの案内で1㎞を歩き回った。他の客も混じっているからか、添乗員はまったく通訳をしない。鍾乳石の成分や形成の仕方を詳しく説明しているが、聞き取れなかった。

洞内の温度は一年中8度だという。戸外が30度なので、落差のためか8度より寒く感じた。この日のためにジャケットを持ったのは正解だった。

11時45分に次の地へ出発。

1時半にクロアチアに入った。ユーゴというひとつの国だったこともあり、簡単な検査で終わった。

ここでクロアチアの概要を示す。スロベニア、ハンガリー、ボスニア・ヘルツェゴビア、セルビア、モンテネグロなど多くの国と接している。面積は九州の1.5倍ぐらい。人口は490万人。クロアチア人は89%、セルビア人も5%いる。クロアチア語が公用語。カトリックが77%。

歴史は複雑だが、簡単に整理してみたい。南スラブには、ブルガリア、セルビア、クロアチア、スロベニアの4民族が住んでいた。10世紀にクロアチア王国ができた。11世紀にベネチアとハンガリーが強力になり、クロアチアはハンガリーに依存していく。

1102年に、ハンガリーは、クロアチア貴族との間に連合条約を結んだ。クロアチアが事実上、ハンガリーに従属。これ以後、第一次大戦終了まで、オーストリー・ハンガリーに支配された。ナポレオンの登場や、ハプスブルクの没落で、民族再生の動きが高まってきた。

1918年に「セルビア人・クロアチア人、スロベニア人王国」建設。1929年にセルビア人主導の「ユーゴスラビア王国」に改称。
左地図はユーゴスラビアと言われていたころの国。

1939年、ユーゴはドイツ・イタリア側についた。1941年、ナチスは傀儡政権「クロアチア」を組織。ナチは、セルビア人やイスラム教徒にカトリックへの改宗を迫り、従わない者は殺害した。傀儡政権に抵抗していたのが、チトーが率いるパルチザンだった。

1945年、ドイツが降伏したあとのユーゴはソ連に組み込まれたが、チトーは、ソ連に抵抗して、独自の氾スラブ主義の国を建設した。

1980年にチトー大統領が亡くなって以後、ユーゴスラビア連邦では民族運動が頻繁に起こった。クロアチアは、1990年にクロアチア民主連盟が選挙で圧勝。

1991年に独立宣言したが、旧ユーゴスラビア連邦軍とセルビア人の猛攻撃を受け、戦争状態は続いた。1992年に、共和国として正式に独立が認められた。認められたとはいえ、戦闘状態が終わったわけではない。平和が訪れたのは、1995年のことだ。

2時にオパティアという海岸のリゾート地で遅い昼食。(サラミとチーズ、ビーフストロガス、サラダ、チョコレートケーキ)。

3時45分にリエカ到着。リエカスロベニア・クロアチアの旅1の地図参照)は、クロアチア最大の貿易港。クロアチアの若い女性は美しいと言われるが、リエカのガイドも、足が長い美人だった。私にはこういう趣味はないが、ガイドと一緒に写真を撮っている人が何人もいた。

募集パンフレットには、この日の宿泊がブリトビチェ国立公園となっていたが、リエカに変更になった。公園のそばに泊まった方がいいに決まっているが、混んでいるのだろう。今夏のヨーロッパ人いちばんの人気地がクロアチアだという。

市内を通過しているときに、「ここまでがイタリアの町、ここからがユーゴスラビアの町だった」の説明を受けたが、添乗員の英語能力の問題もあり、なんのことやらわからない。今はクロアチアの町だから、1947年頃がそういう時代だったらしい。対岸はイタリアである。力関係で、攻められることもあったのだろう。

 
城址から旧市街を見下ろす
 
ユーゴ時代はなかったマクドナルド

 
トルサット城址のローマ時代の要塞
 
ローマ時代の石の門が残る市街地


トルサット城趾にはローマ時代の要塞が残っていた。ローマ帝国に支配されていたころの名残だ。眼下には、細い路地の旧市街がよく見えた。

城趾を下りて、旧市街の散策。ローマ時代の石の門が建物に組み込まれるなど、歴史を大事にしている街だ。ホテルも街の真ん中にあり、ロケーションがいい。

夕食は市内レストランでクロアチアの郷土料理。昼食が遅かったし、出発前からの風邪が完治していない。早く寝た方がいいと、夕食はキャンセルした。たまたまこの日に、自己紹介をしたとか、少し残念だった。

    <リエカ グランドボナヴィアホテル泊>          (実際の旅から16年遅れの2020年4月16日 記) 

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