モンゴルの旅 2 
 

2016年7月3日-2日目

首都ウランバートルを出て宿泊地のブルドモンゴルの旅1の地図参照)に向かっている。ブルドまでは、道があってないような所を240q走る。「道の駅」もなければドライブインもない。もちろんトイレはないから青空トイレということになる。

 


240qのほとんどは草原地帯。青空のもと羊や山羊や牛が草を食んでいて、これぞ思い描いていたモンゴルの草原だ。「写真を撮りたいから、どこかで停めて」と頼んだら、「これからはこんな風景ばかりです。今日停めなくてもいいでしょう」とアリさんは言う。もちろん信号などないのだが、ときどき牛や羊が道路をふさいでいる。「モンゴルの赤信号は動物たちです」と、アリさんが笑わせる。

ガタガタ道をそれなりに快調に飛ばしていたが、もうすぐブルドのゲルに着こうかという地点で、タイヤが砂に嵌ってしまった。もともと1台の乗用車が嵌っていたので、その車をよけるために悪い道にそれたのがいけなかった。ツアーには10人の男性が参加していた。幸いなことに年寄ばかりでなく、現役の会社員が夏休みをとってきているので心強い。みんなで力をあわせて押したが、びくとも動かない。

 


そうこうしているうちに、一足先にゲルに着いていた他の団体客を乗せたバスが迎えに来てくれた。モンゴル2日目にして幸先が思いやられる事態に巻き込まれたが、こういう国に参加している人は慣れているのか誰からも文句は出なかった。

私たちが泊まるゲルは、ツーリスト専用に作られたものなので遊牧民のように移動するゲルではない。観光客が多い夏が終われば、畳んでしまうのではないだろうか。

ゲルの入口はみな南を向いている。風の通りがよくて太陽が射すからだ。入口を見れば方向も分かる。木部に羊のフェルトを貼り、その上に白いビニールをかぶせているので、遠くからゲルの全体を見回すと、緑の草原と白のコントラスとがとてもきれいだ。足元には黄色や紫の小花が咲いている。

 
 
ブルドのゲル全景
 
私が泊まったゲル(写真左)は中央に
トイレと洗面所があるが水が出なかった


モンゴルの草原を走る馬の群れとゲルに憧れたものだ。若い頃は異文化の珍しそうなものなら、なんでも経験してみたいと思っていた。その当時の話である。

ところが実際のゲルは憧れにはほど遠かった。この年齢になるとある程度想像はついていたのだが、VIPならともかく、一般の旅行者が泊まるゲルは、トイレも風呂も洗面所もないのが普通だ。j私たちが泊まったゲルは、トイレと洗面所つきの上等の部屋だった(抽選で決めた)が、水が出ないので無用の長物にすぎなかった。

最近は夜中に1度はトイレに行く私には別棟トイレが恐怖だったが、終わってみればなんら問題はなかった。思えば若い頃にテントに泊まった時は、トイレも風呂もベッドもなかった。それに比べれば、ベッドがあるゲルは快適だ。

左写真はゲル内部。上が明り取りの窓。白いビニールで覆っているので、雨が降っても大丈夫。木製の枠を見ると、組み立て式になっているのがお分かりと思う。

外部は羊のフェルトで覆ってあるのだが、夕方になると急に冷えてくる。真夏のこの季節でも冷えるのだから、冬の寒さはどんなだろうか。

アルバイトで来ているウランバートルの大学生が、薪ストーブを炊いてくれた。彼らは薪ストーブに慣れてないらしく、燃え出すまでにずいぶん時間がかかった。いったん火がついたように見えても、すぐに消えてしまう。

ツーリストゲルのストーブは薪を焚くが、遊牧民は牛や馬の糞を乾燥させて燃料に使うそうだ。自然と共存する知恵に感心してしまった。


ゲルの近くに砂丘がある。夕食後に砂丘に沈む夕日見学に出かけたが、その時刻がきても太陽は高い。アリさんは「おかしいな。ネットで調べたんだけど」と言うが、夏時間を考慮していなかったのだろう。いい加減なガイドだ。でもこの辺りでは砂漠が珍しいので、それなりの写真が撮れた。南部まで足を延ばせば広大なゴビ砂漠。2瘤ラクダの隊列は、シルクロードの写真集でおなじみだが、そこまで行く体力はなさそうだ。 


                                       <ブルドのゲル 泊>

7月4日(月)-3日目

ブルドのゲルを出発したのは朝9時。約2時間かかって、カラコルム(モンゴルではハラホリン)(モンゴルの旅1の地図参照)に着いた。今回の旅の訪問地で聞いたことがあるのは、ウランバートル以外ではカラコルムだけだった。

初代チンギスハーンがここを兵站基地にし、2代オゴタイハーンが1253年にモンゴル帝国の首都にした。この都は仏教徒だけではなく、イスラム教徒やキリスト教徒が共存し複数の民族が同居する国際都市として繁栄した。マルコポーロの東方見聞録にも記述がある。5代のフビライハーンが大都(今の北京)に首都を移した後は、廃れていく。

19世紀末にロシアの研究者が遺跡を発見したことで脚光を浴びた。今では日本も遺跡発掘に参加している。カラコルム全体が世界遺産に指定されているが、当時の宮殿跡などは発掘中なので、見学コースには入っていなかった。

見学したのはエルデニ・ゾーという仏教寺院群。草原を走ってきて、突如たくさんの寺院が現れたので少々驚いた。1586年にアルタイハーンによって作られたモンゴル初の仏教寺院。アルタイハーンは、16世紀後半にチベットに出兵したときにチベットの高僧に「ダライ・ラマ」の称号を与えて、モンゴルにチベット仏教を導入した。

 
草原の中に突如見えてきたエルデニ・ゾー寺院
 
エルデニ・ゾー寺院


チベット仏教では、ダライ・ラマは観音が転生した「活仏」だと考えられている。この活仏がモンゴルにも現れたのである。その名はホトクト(1653〜1723)。活仏は、モンゴル人の間では政治や信仰の支えだった。社会主義で宗教が禁止されるまで、活仏は8世まで続いた。こんな時代の名残がエルデニ・ゾーである。首都が大都に移ったので、その資材を使って寺院を建築したという。108の仏塔で囲まれている400m四方の敷地の中に、いろいろな建物がある。108の仏塔は、日本仏教での108の煩悩とは意味が違うらしい。

いろいろな年代の釈迦像や活仏やいろいろな像を見たので、こんがらかったしまいよく覚えてないが、日本の仏像や仏画とはまるで違う。


エルデニ・ゾーには社会主義になる前は1万人もの僧が居住していたという。今はほとんどが観光施設になっているが、ラブラン・ゾーでは実際の僧侶が修行をしている。ちょうど読経の時間だった。

モンゴル人の参拝客もたくさんいた。スリランカでは真っ白い衣装でお参りしていたが、ここではカラフルな衣装に身を包んでいる。正装なのだろう(下の写真)


エルデニ・ゾーから徒歩5分のところにある亀石(左)を見に行った。草原の中にぽつんと置いてあり寂しいが、チンギスハーンの都があった頃の貴重な遺物だそうだ。

この近くに発掘中のカラコルム遺跡がある。発掘が終わったならば、マルコポーロが東方見聞録に書いたような賑やかな都の一端が分かるのではないだろうか。

     (2017年6月16日 記)

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