2016年7月2日(土)〜8日(金) 


ウランバートル 
ブルドのゲルとエルデニ・ゾー
モンゴルの大草原
ウギー湖とミニナーダム祭


モンゴルの旅1 
 
 
旅行雑誌をめくっていたら、ゲルの上にきらめく星空の写真があった。それを見ていて、モンゴルに行きたくなった。星に興味があるわけではないが、以前からモンゴルの草原を疾走する馬の群れを見たいと思っていた。「スーホの白い馬」という絵本は、外モンゴルではなく内モンゴルが舞台らしいが、本物の馬頭琴も聴いてみたい。

810年前に広大な帝国を作り上げたチンギスハーンの国。孫のフビライハーンは日本に2度も攻めてきた。大相撲を盛り上げてくれる力士たちの出身国でもある。日本の赤ちゃんには蒙古斑がある。モンゴロイドという黄色人種の仲間だから顔つきも似ている。

日本と大きく違うのは、いっとき(1924年から1992年)社会主義の国だったこと、海に囲まれていない内陸国なこと。私にとっては近くて遠い国。実際にモンゴルの地に立ってみれば何かが分かるに違いない。

モンゴルのツアーはほとんどが短くて、5日間すらある。私が選んだのもわずか7日間だが、左のようなコースで回ってきた。旅行会社はK社。参加者は24名。

1週間間だから「モンゴルという国は・・」と語る気もないが、見てきたままを記したいと思う。


2016年7月2日(土)-1日目

成田発(14時40分)→ミアットモンゴル航空で ウランバートル着(20時10分) 

飛行時間は5時間30分 モンゴルと日本には時差が1時間あるが、今は夏時間なので時計はそのまま。ミアットモンゴル航空は初めて聞いたが、東京とウランバートルは直行便が飛んでいる。日本以外に直行便で結ばれている地は、ベルリン・フランクフルト・モスクワ・北京・ソウル・香港。左写真はモンゴルには関係ないが、きれいに富士山が見えたのでガラス越しに撮った。

チンギスハーン空港には、今日から帰国の日まで世話になるアリョアナトーヤさんという30代半ばの女性が待っていた。覚えづらいので私たちは、アリさんと呼ぶことにした。

高校時代に留学生として静岡に1年いたので、日本語はかなり上手。モンゴル国立大学の経済学部で学んだとか、有能な女性なのだろう。90%が大学に進学するウランバートルには、5つの国立大学以外にたくさんの私立大学があるという。当然大学を出ても職がない。特に今はモンゴルの景気はよくない。「南のゴビ砂漠にある鉱山(金・銅・ウラン・石炭)が、中国に安く買いたたかれているんです」とアリさんは悩ましげに言った。

    <ウランバートルのフラワーホテル泊>

7月3日(日)-2日目

今日から1週間乗るバスは韓国の中古。ハングル文字の注意書きがあり、窓の上部に派手な布がついていて落ち着かないけれど仕方ない。

モンゴルの人口は約350万人。国土は日本の4倍もあるのに、人口は横浜市より少ない。でも4割がウランバートルに住んでいるので、ウランバートルは高層ビルも建つ近代都市。中心から少し離れた郊外には庶民が住む高層アパートや遊牧生活をやめた人たちのゲルも建っている。なにより驚くのは、朝や夕方の通勤時には渋滞することだ。自転車やオートバイなら渋滞の間をすり抜けて走れるが、冬が-40度にもなるので自転車やオートバイに乗る人は少ない。

まず市内観光。スフバートル広場でバスを下りた。広場の設計はソ連の指導によると聞き、モスクワの赤の広場を思い出す。中心にはスフバートルの騎馬像。スフバートルという名は聞いたこともないが、モンゴル人にとって、チンギスハーンについで有名だという。モンゴルの紙幣は10種類もあるが、高額紙幣にはチンギスハーンの、低額紙幣にはスフバートルの肖像画が印刷されている。2人以外の肖像は使ってない。

1911年の辛亥革命で清朝がほろびると、外モンゴルはロシアの支援で独立した。しかしロシア革命でロシアの国力が弱まると、中国はモンゴルの自治を廃止。反旗を翻して1924年に「モンゴル人民共和国」を誕生させたのがスフバートルである。


ビルが林立している スフバートル広場


人民共和国を誕生させたスフバートル 
 
広場にあるゼロメートル地点


独立したとはいえソ連の影響下にあり、1950年にはソ連の衛星国に組み入れられた。モンゴルは世界で2番目に社会主義を取り入れたことになる。ソ連が崩壊したころに、モンゴルでも民主化運動が起こり、1992年には「モンゴル国」として新しく出発した。モンゴル人初の力士旭鷲山が日本に来たのは、もちろん民主化後だ。

アリさんは「民主化されてから26年になります。私が小学校に入学したときはモンゴルの縦文字、中学になるとロシア語を習いキリル文字、高校では英語や日本語、大学ではロシア語。どれも中途半端」だと謙遜する。

今の公用語であるモンゴル語はロシアと同じ横書きのキリル文字(左)。縦書きのモンゴル文字は学校で習うだけだ。大国のロシアや中国に翻弄されてきた国だが、今も大国に囲まれて気が抜けないようだ。

スフバートル広場は国の中心。ゼロメートル地点もあるし、国会議事堂、市役所、中央郵便局、証券取引所、オペラハウスなどの立派な建物が広場を囲んでいる。国会議事堂はノモンハン事件で捕虜になった日本人が建設にあたった。日中戦争ひいては太平洋戦争のきっかけになったノモンハン事件のノモンハン大草原は、モンゴルの東部にある。

国会といえば、数日前に選挙があったばかりで、民主党政権から自民党政権に変わった。具体的にどう変わったのかは聞きそびれた。朝青龍のお兄さんは国会議員。朝青龍も大統領候補らしい。あんなヤンチャな人が大統領候補なのか。

 
国会議事堂
 
チンギスハーンの銅像
 
フビライハーンの銅像


国会議事堂の中央にある銅像はチンギスハーン。左にある像は息子、右にある像は孫のフビライハーン。スフバートルと違って、この2人は日本の教科書にも載っているので馴染みがある。チンギスハーンの4男の息子であるフビライは、都を大都(北京)に移し国号を「元」とした。モンゴルがもっとも輝いていた時代でもある。日本に攻めてきた1274年と1281年の元寇は、鎌倉幕府が滅ぶ遠因にもなった。

広場から近い歴史博物館に行った。1924年に設立され、歴史・民俗学・文化遺産など56,000点以上の資料が展示されている。モンゴルの歴史をアリさんが説明してくれたが、日本のようにほぼ単一民族の歴史ではないから、すぐには頭に入らない。自然の多様さにも驚いた。私たちの旅はわずか1週間だから、南部の砂漠地帯や北部の森林地帯も見たいが遠くまでは行けない。どっちみち、鉄道網や道路網が整備されていないので、快適な移動にはならないだろう。

 
優れた金の工芸品も数多く展示

モンゴル帝国の様子を説明するアリさん 
 
チンギスハーンの戦いぶり



次はチベット仏教のガンダン寺へ。モンゴルにおけるラマ教(チベット仏教)の中心地。1838年に建立されたが、ソ連に支配されていた1939年に破壊された。同時に何千人という僧侶も殺された。社会主義国家が宗教を弾圧した証は、あちこちの国で見てきたが、こうまで惨くできるものかと暗い気持ちになる。

1996年に再建された寺にそびえる26.5mもの観音菩薩が、信仰の対象になっている。もっともアリさんは「若い人はあまり寺に行かない」と言う。日本とて寺のほとんどは、葬式と観光の対象でしかない。

 
ガンダン寺

 観音菩薩
 
マニ車


昼食は、モンゴリアンバーベキュー。好きな肉や野菜を持っていくと、コックが豪快なしぐさで焼いてくれる(左)。モンゴルに来たのだから、ありきたりの豚肉や牛肉ではなく羊肉を焼いてもらった。日本で食べる羊肉より臭味がない。

午後はいよいよ郊外に向かう。今日の午後を含め5日間は、草原での生活だ。市のはずれにあるスーパーマーケットで数日間の飲料水などを買った。スーパーマーケットは広くて品ぞろえも豊富。これなら日本人が駐在してもあまり不便は感じないだろう。

      (2017年6月2日 記)

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