ローマの旅4 
 

「ローマで半日の自由がある。どう過ごせばいいか」と問われるたびに、イタリア文学の教授だった河島英昭氏は「カンピドリオの丘に立つこと」を薦めるのだそうだ。この丘に立てば古代・中世・ルネッサンス・バロック・近代の光景がみごとに私達の眼前に展開するから」と「ローマ散策-岩波新書-」で書いている。

「ローマ散策」を読んだのは帰国後だったので、「カンピドリオの丘」にはすべてがフリータイムであったなら行かなかったかもしれない。目的はここに建つカピトリーニ美術館見学だったのだが、美術品そのものではなく周囲の景観が、私を古代から近代までのローマにいざなってくれた。

まず向かったのは、ヴェネチア広場。ここは「ローマの休日」でアン王女と新聞記者がスクーターを乗り回した広場で、20数年前の「ゆかりの地めぐり」では訪れている。でも美意識の強いローマっ子には嫌な場所らしい。ヴェネチア宮殿のバルコニーは、ムッソリーニが演説した場所なのでファッシズムを思い出す。そればかりか、エマヌエル2世記念堂の白い大理石の建物が古都を台無しにしているというのだ。イタリア統一を成し遂げたエマヌエルが尊敬されていれば、これほど邪険には扱われないだろう。

 
イタリア統一をなしとげたエマヌエル2世を
記念して建てた。1911年完成

 
このヴェネチア宮殿バルコニーから
ムッソニーリが演説した

ヴェネチア広場のすぐ側にカンピドリオ広場への階段がある。この広場の設計者はミケランジェロ。共和主義者のミケランジェロは、フィレンツエのメディチ家の君主政体に嫌気をさして、1543年にローマへ移り住んだ。ローマ再生に大きな影響力があったミケランジェロのローマ移住には、こうした思想的背景があったことが面白い。

階段の両側にある大きな神人天馬の像は、古代ローマの発掘品。階段を登りつめて正面に建つのは市庁舎。2000年以上前の元老院宮殿だったところだ。その左右に建つのはカピトリーノ美術館。目的はここでの美術鑑賞なのだが、正直言ってコレクションの洪水には短期間の旅行者には疲れを覚える。でも白い大理石の彫刻に、心惹かれる作品がたくさんあった。

 
カンピドリオ広場への階段
両側の天馬像は古代ローマの発掘品。正面に見えるのは市庁舎
両側にカピトリーニ美術館がある

 
カピトリーニ美術館の収蔵品
ローマ建国の伝説にちなむ雌狼と双子


2つの美術館は市庁舎と結ばれている。市庁舎は元元老院宮殿である。そのの渡り廊下から見た光景に、思わず「あ!」と声を出してしまった。フォロ・ロマーノの全景が目に飛び込んできた。神殿跡・祭壇の跡・記念柱・凱旋門。その先には巨大なコロッセオやパラティーの丘も見える。鳥の目になって全容を見渡すと、そこで生き生きと生活していた古代ローマ人の姿が目に浮かんでくる。

フォロ・ロマーノを歩き回ったときに「あれが元老院宮殿」と遠くを指さしてくれたが、その時にはこういう楽しみが待っているとは想像すらしなかった。たしかに半日しかローマ滞在の時間がないならば、カンピドリオの丘ほど相応しいところはないかもしれない。

 
左上の建物は復元だがクーリア(ローマ政治の中心) 
手前はセヴェルスの凱旋門(203年建立) 
凱旋門の右にローマのへそと呼ばれる広場

 
後方はティトウスの凱旋門(81年建立)
右の3本柱はカストルとボルクッスの神殿
手前の柱はフォカスの記念柱(608年)
道は「聖なる道」


 

世界中で永遠の都と呼ばれている都市は、ローマだけだ。何千年も前の黄河文明、インダス文明、メソポタミア文明、エジプト文明で栄えた都市も今は廃墟に等しい。時代が下がってアンデス文明で栄えた都市も遺跡になっている。

その点、ローマは遺跡だけの都市ではない。栄光あるローマ帝国滅亡後も教皇の町、国王の町、民衆の町としてあり続けた。人口が減り続け、フォロ・ロマーノなどは牧場になっていた時代もあった。でも「不滅であれ」と願った過去の栄光が完全に失われることはなく、繰り返し蘇ってきた。現実のローマが生気を失っていた時代にも、ローマを原点としてみることでヨーロッパ全体が成長を遂げたような気がする。ヨーロッパの重厚な建築にはギリシャローマ時代の柱が使われている。もちろんアメリカや明治維新後の日本でもコリント式の柱は大人気だった。

ルネサンスやバロック時代にローマは生まれ変わり、今見るローマはバロックの街である。でもバロックの街を作る時に常に意識したのは輝かしいローマ帝国のモニュメント。廃墟とはいえ、その時代の建物がそのままたくさん残っているから、意識せざるを得なかったと言われている。だからかどうか知らないが、他のヨーロッパの都市や同じイタリアでもミラノにはあるゴシック建築がローマにはない。今でこそローマとミラノは同じ国の都市だが、当時は独立していたから一緒くたにはできない。

こういう目でローマの街並みを見ると、パリやロンドンとは違う重々しさがある。もちろんニューヨークにはない永遠性を感じる。

輝かしいローマ帝国のモニュメントで、いちばん目立つのはコロッセオだ。帝国時代のローマ遺跡は世界中にかなり残っているとはいえ、コロッセオの存在感は飛びぬけている。子どもの頃に、コロッセオの写真に接し「いつか本物の円形劇場を見たい」と思い続けていた。

ギリシャの劇場は半円形だが、円形劇場はローマの発明。最初に円形劇場を見たのは、ローマではなくトルコだった。「そうか、トルコもローマ帝国だったのね」と気づくことになった。その後、いくつの円形劇場を見たろうか。とっさには思い出せないが、半分朽ちたものも含めれば20にはなると思う。

でもスケールの大きさでは、コロッセオは抜きんでている。外周527m、高さ57m、約5万人が収容できたという。東京ドームの収容人数と同じ規模の劇場が2000年前に出来、そのほとんどが残っていることに驚く。ドーリア式、イオニア式、コリント式の3様式の柱も見逃せない。地下には猛獣用の檻もある。猛獣同士ばかりでなく猛獣と剣闘士の戦いに、観客が熱狂したと聞くと、人間の残忍さを思わないわけにはいかない。剣闘士はローマ市民ではなく、アフリカ人やノルマン人など戦争の捕虜だった。


コロッセオ内部
床がないので地下部分もよく見える
 
 
観客席は身分による違いがあった。
白っぽい席が貴賓席 日よけの天幕もあった

   

3種類の柱(ドーリア式・イオニア式・コリント式)が
残っている部分もあるが右のような部分もある
 
 
柱さえも持ち去られてしまった。
コロッセオのほとんどの石材は、他の建築資材になった


紀元80年頃ティトウス帝の時に完成したコロッセオだが、5世紀にホノリウス帝が闘技を禁止、帝国滅亡とともに忘れ去られてしまう。中世には大理石が持ち出され荒廃が進んだという。大理石は真っ白だったが、中は煉瓦。私たちが目にするコロッセオは煉瓦むき出しだが、それでも形が美しい。80か所ある入口のうち偉人の入口の天井にはレリーフが残っている。

コロッセオにつぐ人気の遺跡はフォロ・ロマーノ。市民の公共広場として利用され、紀元6世紀には下水道が完備されていた。カエサルによって本格的に整備されたが、計画途中で暗殺されたために初代皇帝のアウグストウスが引き継いだ。今もアウグストウス建築の建物が残っている。

市庁舎(元老院)からながめたフォロロマーノの写真を先に載せてしまったが、最初に歩き回ったのはフォロロマーノの写真が次。


フォロロマーノを歩いていた時に撮った写真。右がセヴェルスの凱旋門。
その上に見えるのがエマヌエル2世記念堂の屋根の部分。左の柱はフォカスの記念柱。
後方の茶色のビルが市庁舎。上の写真と見比べて欲しい。

 
ブルータスに暗殺されたカエサル。火葬された場所がそのまま残っている。

ローマに残る最古の凱旋門が紀元81年建立のティトウスの凱旋門。203年建立のセヴェルスの凱旋門は戦勝場面のレリーフも残っている。若い頃は、凱旋門といえばパリのしか知らなかったが、それより1700年も前の建築だと思うと感慨深い。ナポレオンは真似したにすぎなかったのだ。

他にも神殿などが当時のままで残っているが、いちばん感激したのは、紀元前44年に暗殺されたカエサルが火葬された場所が残っていることだ。暗殺の2年後にカエサルの養子だった初代皇帝アウグストウスによってカエサルに捧げられれた神殿。「ブルータスお前もか」のせりふは、シェークスピアの劇中のものだけど、興奮しないわけにはいかにない。暗殺されたのは他の場所だが、火葬されたのがここだという。

中世には牧場だったというが、19世紀に発掘された。私たちは良い時代に生まれたものだ。これらの遺跡をこの目で見て、ローマ時代の道を歩いているのだ。左写真は、フォロロマーノ内にある当時の道。私たち観光客も、普通に歩くことができる。 (2017年9月16日 記)




感想・要望をどうぞ→
ローマの旅1へ
次(アッピア街道)へ
ホームへ