福知山・竹田城・丹波・明石の旅 2 2019年11月20日(水) 10時に住職夫妻がホテルまで迎えに来てくれた。今日は兵庫県の北部を案内してくださるという。勝手に歩き回ろうと思っていたが、JRもバス便も少ないので、この申し出はとても有難かった。 今は空き家のもとさんが育った家(左)に、Y子さんとお嬢さんが連れて行ってくれた。現代建築には見られない重厚な柱を使った広くて立派な家なのだが、誰も住んでいない。空き家問題は日本中にあるらしいが、なんとか活用の方法はないものか。 今回は養父はパスして、丹波篠山市に車を走らせた。市の名前が、篠山から丹波篠山に変わったばかりだ。丹波市があるのだから、篠山市のほうが分かりやすいのにと、心の中でつぶやく。もっとも夫の出身地にも隣りあわせで、伊豆市と伊豆の国市があり、ややこしいことこの上ない。 篠山城は、徳川家康が西国の要として1609年に築城。城下の町割りも行われ、今も残る御徒士町もその時にできた。最初の統治は常陸国から国替えされた松平康重。以後、松平家6代、青山家6代と続き、明治維新を迎えた。 当時をしのばせる史跡は濠と石垣だけだが、ほぼ正方形の城址を濠が囲んでいる風情はなかなかいい。天守閣ははじめから作ってないので、城の中心は大書院だが1944年に焼失。今ある書院は再建されたもの。
篠山城は日本名城100に選定されている。歴史学者が選定委員だから価値はあるのだろうが、100名城に選ばれた理由がよくわからない。史料館をじっくり見ればその価値が分かったのかもしれない。 いちばん印象に残ったのは、御徒士町武家屋敷群と武家屋敷のひとつ安間家史料館。廃藩置県で家臣の大半は篠山から引き上げたという。でも御徒士町の武士のほとんどは留まったとか、当時の武家屋敷の面影が残っている。 屋敷群は外観だけの見学だが、安間家は史料館として公開している。1837年の古地図に「高12石3人扶持」の記載があり、標準的な武家住宅といえる。
呉服町・魚屋町などいかにも元城下町を思わせる町名も残っている。観光客用の丹波栗や丹波豆の店が何軒も続いていた。いつも正月だけは高い丹波の黒豆を買っているので、今年は現地調達。現地で買っても高いが1年に1度のことだからと奮発。栗も大きくて見事だが、やはり高い。 市内で昼食後、生野銀山に向かった。沿道の紅葉がすばらしい。東北の紅葉がピカ一だと思い込んでいる私だが、兵庫県も捨てたものではない。 生野銀山は佐渡金山と並んで、地理の授業でおなじみだ。子どもの頃に覚えたものは忘れないので、生野といえば銀山が反射的に思い浮かぶ。車でなければとても来れそうにない地なので、住職夫妻の心遣いに感謝。 歴史は古く、平安初期の807年に発見されたと伝えられている。室町時代には本格的な採掘が始まった。織田信長も豊臣秀吉も生野に代官を置き、徳川家康も引き継いだ。江戸時代に生野銀山の最盛期を迎える。 明治元年に官営鉱山になり、フランス人技師の指導で、近代化をとげた。明治22年に皇室の財産になり、明治29年に三菱合資会社に払い下げられた。
昭和48年に資源が枯渇したために閉山し、その後はミュージアムとしてオープン。近代化産業遺産や日本遺産にも認定されている。掘り進んだ坑道の総延長は350km、深さは380mにも及ぶ。鉱石は銀ばかりでなく70種以上もあったという。 観光用に公開されている坑道を見学した。明治の近代化以降はエレベーターごとき設備もあったが、江戸時代の鉱夫は無理な姿勢で掘っていた様子が分かる。しかも身体に毒の物質を吸い込むので寿命は短かったようだ。 でも悲惨な様子はあえて伝えないようにしているのか「アンダーグランドのロマンあふれる世界を体験してください」と入場券に印刷してあった。お遊びの洞窟探検じゃあるまいし、「ロマンあふれる世界」とは何事かと思ったが、受付の人に言ってもどうしようもない。それはともかく、有名な銀山跡を見学できて大満足だ 。 (2021年1月2日 記) 感想などいただけると嬉しいです→ 次(朝の竹田城)へ 福知山・竹田城・丹波・明石の旅1へ ホームへ |