大分の旅2
3月18日(月)-2日目
お札で目にしている福澤諭吉が育った「中津」に行ってみたいと前から思っていた。
大分発(8時41分)→日豊本線ソニックの特急→中津着(9時29分)
中津は福岡県との県境にあり、江戸時代までは豊前の国(福岡の北九州市なども)なので、豊後の国・大分市より、福岡に親しみを感じるらしい。
駅を降りてまず目に入ったのは、福澤諭吉の大きな立像である。駅前にある像は武将が多いが、中津のそれは武将ではない。
駅には依頼していたガイドのMさんが待っていた。「退職してから地域に関心を持ち始めたので、あまり詳しくありませんが」と謙遜するが、感じのいい男性で2時間余を楽しく過ごした。ガイド料2000円。
「中津藩の支配者は黒田、細川、小笠原、奥平です。黒田官兵衛(如水)は関ヶ原の戦いに貢献したので福岡52万石に入封。細川忠利も大阪の陣後熊本54万石に入封。小笠原から奥平までは8万石から10万石です」とMさんが分かりやすく説明してくれた。
譜代大名はどこもそうだが、城下町としての規模は小さい。徒歩だけで見学できる。
駅から少し歩くと寺が10以上も並ぶ寺町通がある。城下の防衛のために寺を配置し、多くの寺が支城の役割も担っていたらしい。
寺町の寺のひとつ合元寺(左)は、真っ赤な壁が目立つ。黒田官兵衛によって討ちとられた時に、宇都宮鎮房の家臣たちの血がつき赤くなった。塗り替えても血が浮き出てくるので、赤い壁にしたという。
寺町通を北に進むと福澤諭吉旧居と記念館に着く。諭吉は1835(天保5)年、大阪の中津藩蔵屋敷で生まれた。わずか13石の下級武士の次男。1歳半で父が亡くなったので、母子6人で中津に戻った。
こんな環境にいても賢い子は学べるチャンスがあったということだ。長崎や大坂の緒方洪庵のもとで蘭学を学び、1858(安政5)年には江戸の中屋敷に蘭学塾を開いた。慶応義塾の始まり。わずか23歳の時だから、よほど優秀だったのだろう。慶応義塾を名乗ったのは1868(慶応4)年。
その後の活躍は言うまでもない。咸臨丸で渡米したり、ヨーロッパにも行っている。その見聞がもとになって「西洋事情」「文明論之概略」を、中津の子供たちのために「学問のすすめ」を書いた。
諭吉が19歳まで住んだ旧居が残っている。修理を繰り返しているとは思うが、13石の下級武士の家にしては立派だ。
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福澤諭吉旧居
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旧居内部
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諭吉の勉強部屋(屋根裏)
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慶応義塾創立150年の記念植樹
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記念館には著作、家族の写真、手紙などが置いてあり、見ごたえがあった。なぜか撮影中止だったので内部の写真はない。ひな祭り特別展示として、福澤房が描いたひな人形の掛け軸や日本画もあった。房は諭吉と養子縁組をした岩崎桃介の妻。福澤桃介は電力王としても有名である。
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諭吉旧居の庭にある胸像
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記念館ロビーにある胸像 |
1万円札と言えば聖徳太子だった。諭吉にかわったのは1984年。2004年にも改定があったが、諭吉だけは残った。Mさんが「お札の顔が2度も続いたのは諭吉だけなんですよ」と嬉しそうに説明してくれたが、次の1万円は渋沢栄一に代わってしまう。Mさんは残念がっているに違いない。A000001Bの1万円札が展示してあった。ちなみにA000001Aは造幣局が持っている。
次は中津城へ。中津川河口の周防灘に臨む場所に黒田官兵衛が築いた。地形が扇状なので扇城とも言われる。明治2年に廃城になったが、本丸石垣と濠の水は当時のまま。
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昭和39年再建の中津城 濠と石垣は当時のまま
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天守閣から見ると海と川が一体になっている様子が分かる。
三大水城
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今の天守閣は昭和39年の再建。外観は城の風格があるが、内部は歴史博物館で、鎧、槍、刀剣や古文書など、どの城でも見るようなものが展示されている。
最上階からは、海水が入ってきて濠の水が増減するという説明どおりの光景が見えた。海と川が一体になっている。高松城、今治城と並んで日本三水城と言われる。上からの景色を見なければ、中津がこんなにも海に近いことを気づかなかった。
Mさんが「中津の名物は鶏のから揚げです」とお勧めの店を教えてくれたが、大勢の人が待っている。列車に間に合わないので、昼食はコンビニで買ってすませた。 (2021年3月16日 記)
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