大分の旅4


2019年3月19日(火)-3日目

今日は臼杵に行くことにした。大分から臼杵まではJRの日豊本線に乗った。この路線はなぜかJR乗り放題の範囲に入ってないが、臼杵の石仏は前から見たいと思っていた。

大分発(8時19分)→日豊本線の普通列車→臼杵着(9時14分)

車を使わない旅は不便だ。この時も臼杵駅に降りた観光客は我々だけだった。肝心の石仏までは歩くには遠すぎる。バスは1時間ほど待たねばならなかったが、駅にはオーストラリア人のガイドがいたので退屈しなかった。

「どうして臼杵に来たの?」「僕も日本人の奥さんも田舎の生活が好きなんです。この前は四国の田舎にいた。子どもも伸び伸び育っているよ」というような話をしていたら1時間はすぐ経った。この時は外国人はいなかったが、仏像に惹かれて訪れる欧米人は多いそうだ。駅のプラットホームが洒落ていることが分かったのも時間があればこそ。

 
JRの駅なのに、こんな遊び心

 
プラットホームには石仏の摸像

臼杵の摩崖仏は写真集などで何度も見ていたが、意外なことに史料が残っていないそうだ。平安時代末から鎌倉時代にかけて作られたのではないかと推定されている。ここを治めていた豪族の臼杵氏が極楽往生を願い、京都から仏師集団を招いて作ったらしい。

一周すると800mのところどころに、ホキ石仏第2群、ホキ石仏第1群、山王山石仏、古園石仏の摩崖仏がある。この4群全体で61体があり、59体が平成7年に、残る2体も平成29年に国宝に指定された。

ホキは「崖」という地名ですとその場にいたガイドが説明してくれた。野ざらしになっていると思いきや、建物で覆われていた。中国の洛陽で見た龍門の石仏群は自然のままで雄大な仏様に感激したものだ。でもいい状態を保つには覆いが必要かもしれない。

ホキ石仏第2群には阿弥陀3尊像と9品の弥陀像。ここの阿弥陀3尊像は保存状態もよくて、気品があった。ホキ石仏第1群には如来3尊像3組と地蔵十王像。山王山石仏の如来像は、仏像にしては珍しく童顔。ニコニコしていて気に入った。

 
ホキ石仏第2群の阿弥陀3尊像

 
ホキ石仏第2群
 
 
第1群の如来像
 
第1群の如来3尊像

 
山王山石仏の如来像
古園石仏と言われる群に、見たかった大日如来像が鎮座していた。若いころ写真集で見ていたのは、仏頭部分だけだとわかった。昭和55年から14年かけて行われた修復のときに、胴と一体にしたという。

 
 
古園石仏の大日如来
 
古園石仏群
 
 古園石仏の大日如来

石仏見物は1時間弱で終え、12時から予約していたガイドに臼杵市内を案内してもらうことになっている。大分旅行の計画を立てる前は、臼杵と言えば石仏しか思い浮かばなかった。ここが城下町だったなど考えたこともなかったが、見どころも多く、偉人もたくさん輩出している。

臼杵は1562年に大友宗麟が臼杵の丹生島に城を築いたことに始まる。当時の臼杵は明やポルトガルの商人が行き交う国際的な都市だった。

江戸時代は、1600年に美濃の郡上八幡から入封した稲葉氏が臼杵藩5万石として幕末まで治めた。豊後にはほかに大分の城下町がある。一国一城令の掟は免れたのだろうか。

石仏からバスに乗り「三重の塔」の前にガイドのIさんが待っていてくれた。ガイド料は2000円。Iさんはもうすぐ80歳という女性だが、元気いっぱい。見習わねばと思った。

龍原寺三重塔は、江戸期の木造三重塔で聖徳太子を祀る。雨模様の日和のせいか、ほとんど人が歩いていない道を進む。長良信夫(明石原人の発見者)記念館もあった。昔の歴史教科書には明石原人が出てきたが、今はどうなのだろう。旧真光寺の2階から二王座全体がよく見えた。

最大のみどころは二王座歴史の道。二王座は阿蘇山の火山灰が固まってできた凝灰岩の丘を言う。その丘を削り取って道を通したので、二王座の道という。中級武士以上の住宅と寺が連なっている。石畳と寺の塀や石垣が絵になる風景だ。ここに着物姿の人でも現れたら写真として良い作品になるなと思うも、人っ子ひとりいない。

 

 二王座歴史の道
 
二王座歴史の道
 
二王座歴史の道

もっとも江戸時代に石畳などない。平成5年に電線を地下に埋めるなど、歴史の道にふさわしく整備された。こんな説明を聞くとがっかりするが、日本中、いや世界中でこんな事が行われている。

家老の後藤家の長屋門や藩医の長屋門を見ながら、稲葉家下屋敷の外観だけ見学。廃藩置県で東京に移住した旧藩主の里帰り用に明治35年に作った屋敷。隣接している荘田平五郎記念こども図書館は、荘田氏が大正7年に建築したものを出身地に寄贈。荘田氏は三菱の大番頭でキリンビールの名付け親でもる

 
家老の長屋門
 
荘田平五郎が屋敷を寄贈した図書館
 
稲葉家の下屋敷


次は臼杵城址に登った。明治6年に卯寅口門脇櫓と畳櫓を残して取り壊されたが、畳櫓は平成10年に建て替えられ、平成13年に大手門櫓が復元された。ガイドのIさんは「櫓だけでなく天守閣も復元してほしいのですが」と言うが、たしかに殺風景な城址だ。大友宗麟のレリーフはあったが、長いこと城主だった稲葉家の像はなかった。大友宗麟が日本で最初に使った大砲のレプリカも置いてあった。


臼杵城 天守閣が復元されていないので少し殺風景

 
 
大友宗麟のレリーフ  城主が長かった稲葉氏の像はない
臼杵城から駅までは近い。2時間半もガイドしてくれたIさんと駅で別れた。(2021年4月16日 記)

感想などいただけると嬉しいです→
次(大分市)へ
大分の旅1へ
ホームへ