大分の旅4 2019年3月19日(火)-3日目 今日は臼杵に行くことにした。大分から臼杵まではJRの日豊本線に乗った。この路線はなぜかJR乗り放題の範囲に入ってないが、臼杵の石仏は前から見たいと思っていた。 大分発(8時19分)→日豊本線の普通列車→臼杵着(9時14分) 車を使わない旅は不便だ。この時も臼杵駅に降りた観光客は我々だけだった。肝心の石仏までは歩くには遠すぎる。バスは1時間ほど待たねばならなかったが、駅にはオーストラリア人のガイドがいたので退屈しなかった。
臼杵の摩崖仏は写真集などで何度も見ていたが、意外なことに史料が残っていないそうだ。平安時代末から鎌倉時代にかけて作られたのではないかと推定されている。ここを治めていた豪族の臼杵氏が極楽往生を願い、京都から仏師集団を招いて作ったらしい。
臼杵は1562年に大友宗麟が臼杵の丹生島に城を築いたことに始まる。当時の臼杵は明やポルトガルの商人が行き交う国際的な都市だった。 江戸時代は、1600年に美濃の郡上八幡から入封した稲葉氏が臼杵藩5万石として幕末まで治めた。豊後にはほかに大分の城下町がある。一国一城令の掟は免れたのだろうか。 石仏からバスに乗り「三重の塔」の前にガイドのIさんが待っていてくれた。ガイド料は2000円。Iさんはもうすぐ80歳という女性だが、元気いっぱい。見習わねばと思った。 龍原寺三重塔は、江戸期の木造三重塔で聖徳太子を祀る。雨模様の日和のせいか、ほとんど人が歩いていない道を進む。長良信夫(明石原人の発見者)記念館もあった。昔の歴史教科書には明石原人が出てきたが、今はどうなのだろう。旧真光寺の2階から二王座全体がよく見えた。 最大のみどころは二王座歴史の道。二王座は阿蘇山の火山灰が固まってできた凝灰岩の丘を言う。その丘を削り取って道を通したので、二王座の道という。中級武士以上の住宅と寺が連なっている。石畳と寺の塀や石垣が絵になる風景だ。ここに着物姿の人でも現れたら写真として良い作品になるなと思うも、人っ子ひとりいない。
家老の後藤家の長屋門や藩医の長屋門を見ながら、稲葉家下屋敷の外観だけ見学。廃藩置県で東京に移住した旧藩主の里帰り用に明治35年に作った屋敷。隣接している荘田平五郎記念こども図書館は、荘田氏が大正7年に建築したものを出身地に寄贈。荘田氏は三菱の大番頭でキリンビールの名付け親でもる。
次は臼杵城址に登った。明治6年に卯寅口門脇櫓と畳櫓を残して取り壊されたが、畳櫓は平成10年に建て替えられ、平成13年に大手門櫓が復元された。ガイドのIさんは「櫓だけでなく天守閣も復元してほしいのですが」と言うが、たしかに殺風景な城址だ。大友宗麟のレリーフはあったが、長いこと城主だった稲葉家の像はなかった。大友宗麟が日本で最初に使った大砲のレプリカも置いてあった。
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