ポルトガルの旅 2
赤玉ポートワイン  ポルト

 40年以上前の大学合格祝いの席で、はじめて「赤玉ポートワイン」を飲みました。飲まされてしまった・・という表現があたっています。色彩の美しさと口当たりの良さに、ジュースのごとく飲んでしまい、顔は真っ赤、頭はガンガン。この時から、ワイン、ウイスキー、ウオッカ、ビール、日本酒・・すべてダメ。

 「アルコールが飲めないのは、つまんない人生だなー」と自分でも思いますよ。輪に入れない悔しさ、もどかしさ・・。そして妙な誤解からくる冷たい視線に耐えてきました。酒が飲めないようでは大人物になれない、真面目だから付き合いにくい、金が貯まるだろう・・。

 ポルトガル最初の訪問地は、リスボンに次ぐ第2の都市ポルト。イスラム勢力を退けて、この地をもらったフランス人貴族の息子・アフォンソ1世が、1139年にポルトガルを建国しました。国名の由来といい、建国者の地盤といい、ポルトは、ポルトガルにとって、切っても切れない地です。

 アフォンソ1世という名前は、旅の間に何度も出ましたが、私には初耳。同じ建国の父であるアメリカのワシントンとは、認知度にだいぶ差があります。「入試必須重要人物」のリストにないと、インプットされていないのですね。

 右写真は、ポルトの下町で見た、ポルトガルの典型的な窓です。青いタイル、洗濯物、道行く人をぼんやり眺めているお年寄り。

 この3点セットは、旅情を感じさせてくれますが、もちろん近代的なビルもたくさん建っています。

 本題の「赤玉ポートワイン」に戻りましょう。ポルトこそが、赤玉ポートワインゆかりの地だったのです。サントリーが、明治40年に、ポルトワインをイメージして作ったのがはじまり。これが売れたおかげで、ウイスキー開発に乗り出すことが出来た・・と社史にあります。

 ヌードの女性がワイングラスを持っているこのポスターは、当時は大評判になりました。今でこそヌードなど珍しくもありませんが、明治時代ですから。日本髪とワインとヌードの組み合わせは、なんと申しましょうか。

 ちなみに、サントリーの名も、赤玉→太陽→サン。創業者の鳥井→トリイ→トリーから取ったそうです。

 ポルトの対岸、ヴィラ・ノヴァ・デ・ガイヤには、50を越すワイン工場があります。右写真は、工場前の敷地から、対岸のポルトを見た風景。

 小舟には、ワイン樽が積まれ、帆が張ってありました。見学後にゆっくり撮ろうと思ったら、なぜか帆がないのです。

 集合時間が迫っていても、バカチョンだから、1枚ぐらい撮れたはず。旅行中のシャッターチャンスは、そうそうあるものではありませんね。

 工場の一つ「サンデマン」を見学しました。サンデマンは創業者イギリス人の名で、独特の黒マントがマークになっています。左下の写真は、ワイン蔵に置かれたサンデマン人形。

 「発酵の途中にブランデーを加えることによって発酵を止め、フルーティーな甘さを残す。この甘さがポルトワインの特徴です」と、黒マント美人がワイン蔵の中で説明してくれました。

 説明嬢の言うように、ポートワインの特徴は、甘さ。夫は、赤玉ポートワインのせいで「ワインは甘ったるくてまずいもんだ」と、長いこと思っていたそうです。

 同行者の数人も、「あの甘さには、ついていけませんでしたよ。女子供の飲み物でしたよね」「あのせいで、ワインの普及が遅れましたね」など話し出しました。でもサンデマンで試飲した殿方は、異口同音。「若い頃口にした赤玉より、ずっと美味い!」。

 こんなに評判の悪い「赤玉ポートワイン」ですが、まだ「赤玉スイートワイン」の名で健在とか。生き残っているからには、改良しているのでしょうね。今度買ってみましょう。

 ポルトガルにワイン造りが伝えられたのは、BC5世紀頃のローマ時代。酒御法度のイスラム勢の侵入で衰退しましたが、キリスト教の台頭で再び盛んに。常にスペインに対抗意識を持っていたポルトガルは、イギリス人だけに関税特権(1703年のメヌエン条約)を与えたことから、イギリス人が進出し、急速に生産が拡大しました。

 さすが大英帝国。自国のウイスキーだけに満足せず、紅茶やらワインやらの調達もお盛んだったようで。今や、ポルトガルの農産物輸出量の5割がワインとのこと。イギリスさまさまかもしれません。

 ところで、織田信長が初めてワインを飲んだのは16世紀。もちろんポルトワインです。初物が好きだった言われる信長が、「美味い!」と、目を細めたのかどうか。(2003年8月2日記)

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