ポルトガルの旅 3
カステラ

 右写真は、セルパのポサーダに隣接している教会。エーゲ海の教会を思わせる白い漆喰壁は、群青色の空に映えて、まばゆいばかりでした。カステラの話題と関係なさそうですが、少し関連があります。

 セルパは、スペイン国境に近い小さな街。観光というより、セルパにあるポサーダ(国営ホテル)宿泊が目的でした。ポサーダは、歴史的な建物をホテルに改築しているので、立地が良い所は早くから満員。「ポサーダ4泊」が、このツアーの売りだったので、なんとしてもポサーダ・・というわけで、山上の辺鄙な地に連れて来られたのでした。

 ポサーダ到着後、たっぷり自由時間があったので、街に降りてみました。市街地は、小さいながらも城壁都市。観光客が少ないので、尚更情緒があり、もうけものをしたような気になりました。

 左写真のように、水道橋が一体になっている珍しい城壁です。「こんな珍しい城壁は、登ってみなけりゃ・・」と、登り口を探しましたが、人通りもまばら。

 ドアが開いている室内にいた老人に、咄嗟に「カステラはどこ?」と聞きました。おもむろに出てきてくれた男性は、「右へ行って左に行って、上に」と手真似で説明してくれたのです。もちろん「オブリガーダ」と、お礼のひとこと。

 城のポルトガル語がカステラに違いない・・と咄嗟に思ったのには、訳があります。「日本の城を見たポルトガル人が、”Oh!Castle!”と指さした方向に、卵菓子があった。だからその菓子を、カステラと言うようになった」と、なぜかアメリカ人から聞いたことがあります。アメリカ人はキャッスルと言ったけれど、ポルトガル語ではカステラに違いない・・の判断でした。

 数日後、リスボンのガイドが「城の絵皿にのっている菓子を見た日本の殿様が、これは何?と聞いた。菓子の名ではなく、城の方を聞かれたと勘違いしたポルトガル人が、カステラだと答えたので、間違って伝わった」と説明してくれました。やはり!

 ポルトガル伝来の菓子は、金平糖(ポルトガル語ではコンフェイト)、卵ボーロ(ポルトガル語でもボーロ)、鶏卵そうめん、カステラなど、主に卵を材料にしたものが多々。店先には、卵主体の菓子が山積みされていました。農民から卵を寄付されたのはいいが、食べきれなかった修道女が工夫したのが、はじまりとか。

 特に有名なのが、カステラです。包み紙にも南蛮人の絵柄が使われているほどです。左は、文明堂の熨斗紙。

 ところが、ポルトガルには、カステラなる菓子はないのです。原型とされるのが、パン・デ・ローという、卵・砂糖・小麦粉を混ぜて焼くだけの、まさにカステラですが、ポルトガルでは、その名で呼ばれていません。「なぜカステラと伝わったのか」については、上に書いたように、「城と間違った」説。

 ところが、帰国後に読んだ司馬遼太郎の「街道をゆく」には、「カスティーリャ地方の菓子を献上したことから、カステラと呼ばれるようになった」とあります。カスティーリャは、スペインのほとんどを占めていた王国。

 ややしいことに、ポルトガルは、1580年から1640年までスペインに支配されていました。かの有名なフェリペ2世の時。ポルトガル人が盛んに来日していたのは、この時期です。カスティーリャに敵対心を持っていたポルトガル人が、支配国の名をあえて口にするでしょうか。

 日本の支配下にあった韓国で、韓国独自の菓子を外国の要人に献上する事があったとしても、「これは日本の菓子」とは、決して言わないと思います。

 ちなみに百科事典にも、司馬さんと同じように「カスティーリャ地方の菓子の意」と出ています。さらに、カスティーリャ地方の説明として「ラテン語のcastellum(城)の複数形castella(城の多い国)に由来する」とあります。

 「城と間違った」にしろ、「カスティーリャの菓子」にしろ、カステラが城にちなんだ言葉であることだけは、はっきりしました。しつこいようですが、ポルトガル人が「カスティーリャの菓子」と説明したとは、常識から言っても考えられません。百科事典や司馬遼太郎に適うはずがないのは承知ですが、私の心は決まっています。「城と菓子を間違った説」。

 最後の右写真は、「カステラはどこ?」と聞いた老人の家。看板がかかっている家のドアが開いていたのでした。看板があるぐらいだから、夜になると開く居酒屋か、何か細々と売っていたのかもしれません。

 古い城壁と、現在の家が、軒を連ねていることをお知らせしたくて、この写真を載せました。 (2003年9月2日 記)

 月1回の更新では、行ってきたばかりのポーランドまで、なかなか到達しません。今後は、月半ばにも、載せたいと考え中。

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