ポルトガルの旅 5
エンリケ航海王子

 世界史の教科書に載っているポルトガル人は、エンリケ航海王子(1394年〜1460年)などわずかですが、彼がポルトガルの繁栄に寄与した功績から言えば、当然でしょう。右は、バターリャにある王子の棺。バターリャの修道院は、ツアーで必ず訪れる有名スポットです。

 ポルトガルの向こうは世界の果てだと思われた時代にあって、エンリケ航海王子は、地球が丸いことも熟知。イスラム人やユダヤ人の天文学者、数学者、地理学者から聞いていました。当時のキリスト教社会では、地動説は禁句でしたが、イスラム社会では常識だったようです。

 15世紀初めのヨーロッパ人のほとんどは、アフリカ西岸のボバドル岬から向こうは、滝のように落下していると信じていました。地球の映像を実際に見たのは、「地球は青かった」の名言以後だから、まだ30余年。理科で習ったとはいえ、私には、丸いことも回っていることも、いまだに実感できないのです。15世紀の人が滝のように落下している・・と思いこんでいたことに、親近感すら抱いてしまいます。「動いているなんてウソだろう」「丸かったら転げちゃうじゃない」と、口に出してこそ言いませんが・・。
 
 リスボンのテージョ川に面した広場には、帆船をかたどった「発見のモニュメント」が建っています(左)。エンリケ没後500年を記念して、1960年に造られたもの。船を手にしているのが、エンリケ王子。「いざ行かん!」の意気込みが伝わってきますね。モニュメント全体は、「その1」でご覧下さい。

 近くにある敷石上の「発見の地図」には、各地を発見した年が記されています(右)。

 「ポルトガル人が種子島に鉄砲を伝えたのは1543年」と、授業では習います。あれ!この図では「1541年」。なんでも種子島より早く豊後に漂着したとか。

 面白いことに、日本では「漂着」と言い、ポルトガルでは「発見」と言っています。当時の日本は、れっきとした文明国。「発見されたわけじゃないぞ!」と文句もつけたいところです。でもポルトガルにとって、大航海時代は、唯一とも言える繁栄の時代。「発見」の言葉を、改めたくない気持ちも分からないではありません。
 
 航海王子は、世界初の「航海学校」を、最西端のサグレスに創設しました。サグレスは、草木もなく荒涼とした地。断崖が垂直にそそり立ち、いかにも「果て」を思わせる所でした。

 航海学校の面影を残すものは、博物館と、地面に描かれた「大羅針盤」(左)だけですが、帰国の保証もないまま航海に出た、冒険者達の心情を思いやりながら、しばし大西洋を眺めました。
 

 航海王子が種をまいた航海学校の技術は、ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見につながりました。インド航路を発見したことで、香料貿易を独占。ポルトガルは未曾有の繁栄の時代に。ブラジルからの砂糖や金(きん)でもボロ儲け。アフリカの奴隷売買でも莫大な富を得ました。

 この富は、国の基礎を固めや生産性を高めることには使われず、教会建築や個人の贅沢に使ってしまいました。植民地も、スペインのように国を支配したのではなく、ブラジル以外は、拠点に過ぎませんでした。インドのゴア、中国のマカオ、東南アジアのマラッカなど。

 結局、他のヨーロッパ諸国より発展が遅れて今にいたっています。植民地を支えるには、本国の人口が少なすぎたとも言われていますが、大局的に物事を判断する人物がいなかったのでしょうね。

 右の写真は、サグレス岬の草木のない地に立つ教会。寂しげでしょう?(2003年10月2日 記)

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