ポルトガルの旅 7
アズレージョ

 アズレージョという青いタイルは、ポルトガルの風景に、なんら違和感なく溶け込んでいます。宮殿、貴族の館、教会など権威ある建物ばかりか、ホテル、広場、駅、レストラン、街角の壁に至るまで、場所を選ばす、どこでも目にすることが出来ました。アズレージョを見ない日は、1日とてなかったのです。

 右写真は、ポルトのサン・ベント駅構内。朝食前の散歩時に訪れました。電光掲示板のタイムテーブルがなければ、宮殿とも見間違う重厚で豪華な造りですね。ガイドブックによれば、2万枚ものタイルを使っているとか。ポルトガルの歴史を、時代順に描いているそうです。残念ながらタイル絵の内容は、猫に小判。

 アズレージョは、アラビア語で「小さな磨かれた石・モザイク」を意味するアズレーシャと、「青」を意味するアズールが語源。イベリア半島は、長いことイスラムに支配されていたので、その影響が色濃く残っているようです。

 私が、これまで見たイスラム寺院(エジプト、イラン、トルコ、チュニジア)のどれもが、幾何学模様のタイルで埋め尽くされていました。特に、イランの寺院は、屋根までタイル貼り。言い尽くせないほど見事でしたが、ほんの少しの例外をのぞいて、すべて幾何学模様でした。イスラム教が偶像崇拝を認めていないので、おのずと、具象的な模様は御法度。

 ところが、ポルトガルでアズレージョが盛んに使われるようになった17世紀は、すでにレコンキスタ、つまりキリスト教の国に回復していました。イスラムの教えを守る必要がなかったので、具体的な絵ばかりです。聖書、勝利した戦い、王の業績などこの種の絵にありがちな定番以外に、塩づくりの様子や、農夫が働くほのぼの田園風景などさまざま。

 一つ一つのタイルは、ご覧のように小さいものですが、貼り合わせると大きな絵になります。左写真は、ブサコ(ポルトガルその1の地図参照)の宮殿ホテルのロビーを飾っていた1枚。

 1810年の「ブサコの戦い」を描いたもの。ポルトガルの領有をめぐるイギリスとフランスの戦いです。刀を振り上げているのは、イギリスのウエリントン。ウエリントンは、1815年に、ワーテルローでナポレオンを破ったことで有名ですが、ここでもご活躍。

 ポルトから少し南下した海岸よりに、アヴェイロ(ポルトガルその1の地図参照)という町があります。町の中央を流れる運河は、「ポルトガルのベニス」とも言われ、モリセイロというゴンドラに似た小舟も浮かんでいましたが、比べられるベニスは可哀想

 この町でもっとも印象的だったのは、駅構内のアズレージョです。見事さと言う点では、ポルトのサン・ベント駅にかないませんが、田舎駅独特の情緒とアズレージョの美しさが一体となり、思い出深い駅になりました。

 ご存知のように、ヨーロッパの駅には、改札口がありません。自由にプラットフォームに入り、しかも線路に下りて、反対側のプラットフォームから撮ったのが、下の2枚の写真。列車をのんびり待っているところです。

 バカチョンカメラで望遠を使ったので、少しぼけていますが、私は気に入っています。どこの国でも、オバチャンとオジチャンは同じような雰囲気。そして若い人は、同じ列車を待つ間も、どことなくスタイリッシュ。

 ポルトガルのお年寄りの多くは太っていますよ。特に女性。

 若者はスマートですが、小学生ぐらいまでの子供は、日本なら肥満児と言われそうな子供がうようよ。現地ガイドによれば、「子供は甘やかされているから、好きなモノを食べている」。年頃になって食習慣を変えるのは、大変でしょうに。

 ところで、アズレージョはAZULEJOと書きますが、同じ綴りで、スペインでは、アズレホと読むそうです。スペインでは、この種のタイルは目にしなかったし、アズレホなる説明は聞きませんでしたが、本による情報。

 この話が出たついでに、同じ綴りの読み方の違いに驚いた話を、付け加えましょう。スペインのトレドを流れている川は、タホ川。同じ川がポルトガルに流れ込んで、テージョ川。日本でも同じ川が、県が変わると名前が変わる例はたくさんあり、長野県の千曲川が、新潟県では信濃川になるなどは一例です。

 でもタホもテージョも綴りはTAJOであって、完全に呼び名が変わったわけではないのです。英語読みに慣れた私たちは、テージョと読むことに違和感を覚えませんが、タホに親しみを感じる国もたくさんあるはず。同じイベリア半島の国でありながら、片やテージョ、片やタホ。日本の呼び名も、スペインではJapon、ハポン。ポルトガルではJapao、ジャポーン。サッカーのジーコ監督がいつもポルトガル語で会見しているので、お馴染みですね。

 人種的にも似たもの同士。一見では区別がつかないぐらいだから、同じ言語を使って欲しいものだと思ってしまいますが、両国の競争意識は以前から強く、大航海時代など、日本を舞台にしてさえ、争っていたほど。日本と韓国の関係を思えば、なんら不思議はありませんが、われわれには、ややこしいことですねえ。(2003年11月2日 記)

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