南フランスの旅 6
アヴィニョンの法王庁

 アヴィニョンを有名にしているのは、橋と歌ばかりでなく、法王庁です。法王庁と言えば、イタリアのバチカン市国に、今なお厳然とそびえています。サンピエトロ寺院は、ノンクリスチャンの身から見ると「やり過ぎじゃないの」と、言いたくなるほど豪華絢爛。イエス生誕2000年以上を経ても衰えることを知らない、ローマカトリックの富と権力を象徴しているように思えます。パウロ2世さま!イラクとアメリカの戦争を避けるように、ご尽力下さいませ。

 その法王庁が、ローマ以外の地・フランスのアヴィニョンに置かれていたことがありました。時は1309年から78年までの70年間。1309年という年号は、「坊さん飛んでくアヴィニョン」と覚えれば、忘れないですよ。1309年を知ってどうなるか・・の反論もあろうかと思いますが、ヨーロッパ史には重要な年号。旅のおもしろさが増すような気がします。

 「坊さん飛んでく」の14世紀初頭は、ローマ法王の教権より、国王の権力が大きくなり始めた時期です。こんな時に法王に選ばれたのが、フランス人のクレメンス5世。ローマでの抗争に疲れた彼が、フランス王の庇護を求めて、アヴィニョンに移転。ローマ側は「アヴィニョン補囚」と呼んでいますが、クレメンス5世には、「補囚」されたという情けない感情はなかったと思います。フランス王が、ローマ教皇の上に立った歴史的な出来事です。

 アヴィニョンに法王庁が置かれたのは70年間にすぎませんが、教会の行政職や商人、学者など多くが移住し、アヴィニョンの賑わいは、ローマには見られない繁栄だったそうです。

 その繁栄を表すかのように、宮殿は威風堂々としています。ベネディクト12世が建てた北半分の宮殿は地味。クレメンス6世が建てた南半分は派手。それもそのはず、ベネディクトは修道士出身、クレメンスは貴族出身。修道士が法王になるならともかく、貴族も法王になれたところが、すでに法王権の衰えを示すものですね

 右は、法王庁への入場を待っている時のスナップ。14世紀の木の扉は、朽ちて穴もあいています。どこの国にも、のぞき見をする子供みたいな男がいるものです。「光と影」の題で、写真展に出品。この写真は、お気に入りのひとつですが、どうでしょうか。

 外観の立派さからは考えられないほど、内部は寂しいものです。ぜいたく、優美にはほど遠く、天井画、壁画、家具、彫刻は一切無くがらんどう。「フランス革命軍が兵舎に使ったために荒れ放題。貴重な壁画も切り取って売り飛ばしてしまった」と、ガイドは、残念そうに語りました。

 革命軍は、本丸のヴェルサイユ宮殿をねらえばよさそうなものですが、パリから遠いアヴィニョンしか攻撃出来なかったのかもしれませんね。東京で3月31日まで開かれている「ヴェルサイユ展」には、絶対王政時代の豪華な展示品があまた。アヴィニョンのがらんどうに接すると、ベルサイユの宝物が散逸しないで良かったと思います。はるか日本で目にすることが出来るのですから。

 真夏の法王庁広場はオープンカフェになっていて、ヒッピーまがいの若者がギターをかきならしたり、雑多な人が大騒ぎ。中世をしのぶには、あまりにも現代的でした。
(2003年3月2日 記)

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