ベトナムの旅 2
戦争終結25周年

 1975年4月30日に、北ベトナム正規軍の戦車がサイゴンの大統領官邸に無血入場し、南ベトナム政府は無条件降伏をしました。アメリカのフォード大統領は、ベトナム介入終結を宣言。

 25年後の2000年4月30日の午後、サイゴンからホーチミンと名を変えた市の、これ又大統領官邸から統一会堂と主が変わった建物の中に、私はいました。写真は屋上に展示されているヘリコプター。サイゴン陥落の日に、官邸を脱出するために使われたもの。

  つい先ほどまで25周年の行事が行われていた統一会堂内部や庭は、パレードや式典の熱気がむんむん。公園や通りは、ベトナム社会主義共和国の旗(赤地に黄色い星)や、スローガンらしきものを掲げた横断幕・看板が目立ち、お祭りムード一色です。

 ベトナムが北緯17度線で南北に分かれたのは1954年。ソ連や中国が支持する北ベトナムと、アメリカが後押しする南ベトナムに分断させられました。南ベトナムの民衆は、傀儡政権打倒をかかげた「南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)」を1960年に結成し、北のホーチミン政権の後押しで政府軍に戦いを挑みました。これが15年も続いた戦争の始まりです。

 解放民族戦線結成に対し、アメリカのケネディ大統領はグリーンベレーを送って軍事介入。65年にはジョンソン大統領による北爆開始。北爆で落とした爆弾は255万トン。第二次世界大戦で世界中に落とされた全弾薬の実に3倍もが、ベトナム1国に落とされたのです。

 こうまでしても最強国のアメリカは、アジアの小国に勝てませんでした。歴史は繰り返すと言いますが、アメリカはまたもやアジアの最貧国アフガンに対し、同じようなことをしています。25年前の反省がないのでしょうか。もっとも日本は、米軍が出撃する基地を提供していたわけだから、アメリカを糾弾する資格などありませんね。「ベトナム特需」なる言葉も生まれ、戦争でうるおった人も大勢。

 一方「ベ平連」も発足。65年の米軍の北爆に対し、小田実が「ベトナムに平和を!市民文化団体連合」を呼びかけました。学者、芸術家、市民、学生、宗教家・・あらゆる階層がすべての都道府県で、戦争反対の狼煙をあげました。35年後の日本にその熱気はなく、アメリカの空爆に対し、怒りの声もほとんどあがりませんでした。

感想・要望をどうぞ
ベトナムの旅1へ
次へ 
ホームへ