母が語る20世紀

  12. 愛新覚羅浩(嵯峨浩)

 右の朝日新聞は、昭和32年(
1957年)12月10日の夕刊。元満州皇帝の弟・愛新覚羅溥傑氏と嵯峨浩さんの長女・慧生さんが、同級生の大久保君と心中した事件を大きく報じている。

 その時、母は、新聞を読みながらため息をついた。「ひろさん、お可愛そうに・・」。こたつに入りながら母と交わした会話を、昨日のことのように覚えている。

 「なによ、ひろさんなんて、馴れ馴れしく呼んで」「あら、話さなかったかしら。ひろさんとは三郎助先生の画塾で仲良しだったのよ。特に最初の1年間は、ふたりだけでデッサン室にいたの。先生はめったにいらっしゃらないから、おしゃべりばかりしていたのよ」。

 おかしな話だが、母から嵯峨浩さんとの関わりを聞いたのは、この時が初めてだった。たとえ聞いていたとしても、その話は私の耳を素通りしていたのかもしれない。

 この事件は、多くの人が関心を寄せ、心中の原因についても、さまざまな憶測が新聞、雑誌を飾った。

 事件当時、慧生さんは学習院大学の2年生。父の溥傑氏は中国共産党に抑留の身、母の浩さんとふたりの娘は、横浜・日吉の嵯峨公元氏(浩さんの弟)の家に身を寄せていた。

 慧生さんは親しい友人に「お母さんのように他人の意思に動かされて結婚したくない」ともらしていた。と記事にある。
 「お母さんのような結婚」とは、次のようなものだった。

 清朝のラストエンペラー・愛新覚羅溥儀を、日本が満州国の皇帝に祭りあげたのは、1934年(昭和9年)のことだった。

 弟の溥傑は、20歳で来日し、学習院や士官学校で学んだ。結婚の話が持ち上がった頃は、陸軍中尉。軍部は、日本と満州の絆を深めるために、なんとしても日本人と結婚させたがっていた。

 そこで、花嫁候補として白羽の矢が立ったのが、嵯峨実勝侯爵の長女・浩(ひろ)さんだったのである。

 軍部から話があった嵯峨家としては、青天の霹靂であったろう。政略結婚とわかっているのに、大事な娘を嫁がせたい親はいない。しかし、当時は断るわけにはいかなかった。

 溥傑氏の自伝には「見合いではあったがお互いに一目惚れだった」と書いてある。浩さんの自伝「流転の王妃」にも、「穏やかで学者風の真面目なお人柄に、ひかれた」とある。去年放映された常盤貴子が演じたテレビドラマでも、喜んで結婚したように描かれていた。しかし事実は、少し違っている。

 浩さんは、政略結婚の話が持ち上がった時も、岡田三郎助氏のアトリエで絵の勉強を続けていたが、母はふたりの幼子がいたので、画塾どころではなかった。でも、ときどき顔を出して、画塾の人たちとの交流を続けていたという。

 お二人が結婚した1937年(昭和12年)4月3日は、私の両親にとっても転機の年だった。父が東北大学に赴任することが決まり、仙台に移ることになった。母は、仙台に行く前に、岡田三郎助先生へ挨拶に伺った。先生はお留守だったが、秘書のUさんとは旧知の間柄なので、つい長話になった。当然、話題の中心は、結婚なさったばかりの浩さんになる。

 「結婚がお決まりになったときにね。ここにいらして、泣いて泣いて、大変だったのよ。大人が、あんなに泣くものかと思いましたよ。お気の毒で見ていられなかったわ」と、Uさんは語ったそうだ。

 嘆いたであろうことは、女性なら誰もが想像できる。当時の日本は、中国を植民地のように扱っていた。その国の人との政略結婚が嬉しいはずはない。故郷を離れて、寒い満州に行かねばならない。ましてや、有無を言わせぬ半強制だから、「泣いて泣いて」は、当然のことだった。

 しかし、多くの見合い結婚がそうであるように、ご結婚後は、非常に仲むつまじい夫婦だったようだ。
ところが、平穏な結婚生活もつかの間、3ヶ月後の昭和12年7月7日、北京郊外の廬溝橋で砲声が響いた。日中戦争のはじまりである。夫の国と妻の国が戦火を交えたのだ。

 日本の敗戦で、満州国解体、中華人民共和国設立と、大陸は激動の時代に入った。溥儀と溥傑の兄弟は、中国共産党に捕らえられた。溥傑氏はソ連に抑留後に中国に引き渡され、戦犯管理事務所に入所。この経緯については、映画「ラストエンペラー」を見るとよくわかる。

 娘ふたりを連れた浩さんは、文字通り「流転の王妃」となり、苦難の末に日本にたどり着いた。満州皇帝の弟の家族という特別待遇はなく、一般の引き揚げ者と同じように苦労したらしい。

 離ればなれになった家族が再会出来たのは、別離から16年後の1960年。溥傑氏は、周恩来の尽力もあり、特赦された。慧生さんが命を絶ってから3年後のことだ。16年ぶりに夫と再会したときに、白木の箱を見せねばならなかった浩さんのお気持ちを思うと、「ひろさん、お気の毒に・・」と私もつい口から出てしまう。再開後のおふたりは、北京で暮らし始めたが、文化革命では真っ先につるし上げられるなど、またもや時代に翻弄された。

 母は、文化革命終了直後の1981年に、観光で中国を訪れている。「元満州国皇帝の弟夫婦は、どちらにお住まいでしょう。お元気かしら。差し支えなければ、お会いしたいのです」とガイドに頼んだところ、「そんな人達知らない」と言われてしまった。

 浩さんと母が画塾に通っていた頃に話を戻す。右のお嬢様風の写真は母であるが、裏面には、昭和8年9月とある。昭和7年の1年間はデッサン室にいたので、昭和8年は、油絵室でヌードを描いていた頃だ。デッサン室では、浩さんとふたりだけだったが、油絵室には5〜6人ほどいた。「先生が直してくださると、絵が生き生きしてくるのよ。先生の色はどうしても出せなかったわ」。そりゃそうだ。先生の色が出せたら、画家の道に進んでいたはずだ。

 「妹たちや弟は両親と一緒に、別の所に住んでいるの。私はお祖母様の家にいるのよ」と浩さんは話していた。1度だけ、画塾の帰りに、「お祖母様」の家に寄ったことがある。立派なお屋敷で、何人ものお出迎えに、びっくりしてしまった。

 「そんなご大層な家の令嬢だったら、言葉からして違うんじゃないの。よくつき合っていけたわね」と私は聞いた。「そんなことなかったわよ。公家言葉なんて、もちろんお使いにならなかったわ」。ふたりとも女学校を出たばかりの同い年。ごく普通の女の子が交わすような、ファッションや本の話をしていた。画塾の行き帰りも、市電を利用し、お付きの人がお供するわけでもなかった。互いに、「ひろさん」「ふさこさん」と呼び合っていたという。

 「お祖母様の家」は、今はタイ大使館になっている。浩さんの外祖父・浜口容所氏は、九州電力の社長や豊国銀行の頭取をやり、ヒゲタ醤油を再興した大物実業家だ。お祖母様が浩さんを、非常に可愛がっていたことや、他にきょうだいが多かったこともあって、預けられたのではないか。

 ちなみに溥傑氏とのお見合いは、人目を避けて、この屋敷で行われた。溥傑氏は、「玄関先に置かれた大きな七宝焼きの一対の唐獅子に驚かされた。後にわかったのだが、日清戦争の時に、日本の将校が戦利品として持ち出し、骨董屋に売り払った。めぐりめぐって浜口家が買い求めた。「初めて浜口家を訪問した時に、中国の古物を見たのは奇遇だった」と、自伝で書いている。

 母がびっくり仰天したお屋敷を見ておきたいので、先日、品川区上大崎にあるタイ大使館(左下写真)まで行ってみた。JR山手線の目黒駅から徒歩10分。目黒は渋谷から2つ目の駅だ。都心とは思えない、閑静なお屋敷街の一画に、タイ大使館はあった。ここなら、岡田三郎助先生の私邸にも近い。

 あいにく表門が閉まっていたので、塀の外からの撮影だったが、戦前の実業家の豪勢さを知るには、外観だけで充分だ。

 最後にとっておきの話。画塾に通い始めてまだ間もない頃だが、母が風邪をひいて、お稽古を休んだことがある。心配した浩さんが手紙をくれた。

 封筒の裏には「嵯峨浩」。男性からの手紙だと勘違いした母親は、娘が見る前に開封してしまった。嵯峨家の妹3人は、みな「子」がついている。どうして浩さんだけ、子がつかないのだろう。祖母ならずとも、誰もが「ひろし」と読んでしまう。

 封筒を開けられた話は、耳にタコだ。「その手紙は残ってないの?」「そうね。昔の手紙なんか全然ないから、焼けてしまったのよ」。母は簡単に手紙を捨てる人ではない。実家を整理したときも、手紙の山が残っていた。それだけに、その後も何回か交わした手紙類が残っていないのは、本当に残念だ。一緒に撮った写真もなければ、手紙もなく、彼女と友人だった証拠は何一つない。

 母と同い年だった浩さんは1987年、夫の溥傑氏も1994年に、お亡くなりになった。

「ふた国の 永久(とわ)のむすびの かすがいに なりて果てたき 我が命かな」
(2004年9月18日 記)
 

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