母が語る20世紀

 13. 同潤会アパート

 結婚前の私の本籍は「東京都渋谷区代官山町10番地」だった。以前は、卒業証書に本籍が書いてあり、卒業式で「東京都 安積治子」と呼ばれたものだ。「なぜ東京?」と思いながらも、仙台のいなかっぺには、「代官山」という都会的な響きは嬉しかった。

 父母が東京から仙台に移ったのは、昭和12年(1937年)である。以後、1994年に死ぬまで、父は仙台を離れたことはなかった。にもかかわらず、本籍を変えなかったのは、なぜだろう。これほど父母が愛着を持っていた代官山町10番地は、結婚後に住んだ同潤会アパートの住所だ。

 父と母は、仙台に移る4年前の昭和8年(1933年)10月14日に、東京で結婚式を挙げた。母19歳、父27歳。女学校の時に話が決まっていたので、父にとっては待たされた結婚だったが、母には早すぎる結婚だったようだ。私たち3姉妹に「早く結婚しなさい」と、ひとことも言わなかったのは、自分が早く嫁いだことを悔やんでいたのかもしれない。

 千葉県・佐倉市の民俗歴史博物館は、展示が具体的でわかりやすい。そこに「同潤会アパート」の模型もある。母の結婚生活は、博物館に模型が作られるほどのアパートで始まった。

 レジメには次のように記載されている。

「大震災の罹災者への住宅供給を目的として、大正13年に同潤会が設立された。代官山、向島、表参道に集合住宅を建築。当時としては、画期的な設計だった。耐火耐震の鉄筋コンクリート造りで、各戸に水道・ガス・電気・水洗便所・流し台・調理台・ダストシュートがあり、浴場、娯楽室、食堂、遊園地も併設。申し込みが殺到して常時満室だった。同潤会アパートに住む給与生活者は、かなりエリートであった」




 結婚当時の父は、大学の助手であり、エリートにはほど遠かった。「アパートの家賃は、高かったでしょう。どうしたの?」「おじいちゃん(母の父)が出してくれたんじゃなかったかしら。入居の順番を待っている人が大勢いたので、誰かに頼んで入れてもらったみたいよ」。おやおや、これは不正入居だ。おまけに家賃は親がかり。羨ましいを通り越して、あきれてしまった。

 左2枚のイラストは、「日本20世紀館-小学館-1999年発行」から拝借した。同潤会アパートは、大正13年の建築なので、80年前の住まいということになる。今でも新婚なら、じゅうぶん満足できる作りだと思う。モダンな生活という意味では、抜きん出ていたのではあるまいか。

 このように設備が整ったアパートでも、各戸に風呂はなく、かわりに、共同浴場があった。上のイラストの青い部分が浴場である。

 共同浴場に毎日行くのが面倒だったのか、父は自分で、簡単な水浴び場を作ってしまった。借りた部屋は1階だったので、庭の一部にコンクリートを流した。こんなことをしても、お咎めがなかったらしい。

 15年ほど前、父母と私の3人で代官山を訪ねた。トレンディな街と聞いていたが、アパート群は鬱蒼とした木に囲まれ、壁には蔦がからまり、そこだけは別世界だった。

 驚いたことに、父が作った洗い場も残っていたのである。80歳を過ぎていた父は、しぶしぶ付いてきたのだが、洗い場を見て、目を輝かして喜んだ。母もなつかしそうだった。退居以来、訪ねたことはなかったという。

老朽化したアパートの跡地には、平成12年に、左のような高層ビルが建ち、おしゃれな空間に生まれ変わった。今日、都心に出たついでに、代官山まで足を延ばして写真を撮ってきた。

以前の同潤会アパートの写真(下右)が、新しいビルのタイル壁に保存されてあり、この建物の取り壊しを残念に思う人々の声が、ささやかではあるが、生かされている。






 父母の結婚披露宴は、神田一橋の学士会館で行われた。昭和初期の結婚式は、自宅の座敷でやるものと思いこんでいたが、都会では、会館やホテルで式を挙げる人もいたようだ。先月、ここを訪れたついでに、内部を撮ってきた。(左)。昭和3年に建てられたそのままだという。



 他人の結婚式の写真など面白くもなんともないと思われそうだが、70年前の結婚式の写真はこうだったという、ひとつの証拠写真の意味で、お見せしたい。縮小しているので、みな目がおかしい。特に、美人の祖母(前列右から2番目)が台無しになっている。

 父母の結婚のいきさつは「9の田沢温泉」でも書いているが、父の親友だった正木六郎さん(前列右端)が、母の姉(母の右上)と大恋愛の末に結ばれた。親友の新婚家庭をたびたび訪れていた父が、母の両親に気に入られたらしい。

 

 親友だった父と六郎さんは、とうとう兄弟になってしまった。私が「おじさん」と呼んだのは六郎さんだけだ。「おばさん」と呼んだのも、母の姉だけ。この写真には、父の両親、兄、姉、妹も写っているが、これを撮った10数年後には、その全員が亡くなっている。私が物心ついたときは、父方の祖父母はむろんのこと、おじ、おばは1人もいなかったのである。父だけが、89歳まで長生きした。

 そういえば、この写真に写っている人たちは、母以外は皆亡くなっている。抱っこされている父の甥も、去年亡くなった。相次いで肉親を亡くした父は、いつも口癖のように言っていた。「わしより早く死ぬなんて親不孝な真似はしないでくれ」。幸い、父の子供とその連れ合い、孫達、曾孫達は、全員元気でいる。

 最後に、仲人をしていただいた片山正夫教授に、触れておきたい。父が大学3年になって専門の講座を選ぶとき、ためらいなく「物理化学」の片山教室を選んだ。そのとき以来の恩師である。同じ教室に、水島三一郎氏(のち東大教授)、千谷利三氏(のち大阪大教授)、堀内寿郎氏(のち北海道大教授)がいて、非常に活気があった。

 宮沢賢治を好きな方は、彼が「化學本論」と「法華経」を座右の書にしていたことを、ご存知だろう。その「化學本論」の著者が、片山先生だ。花巻の「宮沢賢治記念館」には、「化學本論」も展示されてある。

 後に東大に移られたが、初版出版時は、東北大学の教授だった。片山先生のご縁で、父は仙台に赴任することになるのだが、それは結婚式から4年後のことである。

 父と同じ職に就いた兄も、「化學本論」の素晴らしさを、ある冊子に長々と書いている。親子2代でお世話になったと言えるだろう。

 母が私の家で暮らすようになった頃、突然言いだした。「そういえば、片山先生の肖像画を、三郎助先生に描いてもらったんだけど、どうなったのかしら。片山先生は、東北大学に化学教室を作った功労者だったの。だから、化学教室のお金で、先生に贈ったのよ。私が三郎助先生に頼んだの」。

 こう言われても、私にはわかりっこない。母からこの話を聞いたときは、兄がまだ東北大学に在籍していたので調べてもらったが、行方はわからなかった。ふと思いついて、学士会館に電話して、片山先生のご遺族の電話番号を教えてもらった。

 電話口に出ていらしたのは、片山先生の長男の奥様だった。「まあ、安積先生ご夫妻は覚えていますよ。よく遊びにいらっしゃいましたから。お母様は、女学校で私の先輩でしたのよ」と思いがけない話になった。「あの肖像画は、駿河台の化学会館に飾っていただいています」とのことだった。

 この項を書くにあたり、化学会館を訪ねてみた。会館ホールには、ノーベル化学賞受賞者の名前が、最近の田中耕一さんまで、金属プレートに彫ってあった。上階の応接間の壁を飾っている絵(左上)は、まさしく写真で見慣れている片山先生だった。おだやかな人柄と、輝かしい業績を残した学者の風貌を併せ持つ肖像画に、しばし見入ってしまった。文化勲章受章者・岡田画伯ならではの作品である。(2004年10月7日 記)

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