母が語る20世紀

 15. 竹久夢二 後

 後半は、「夢二さんとふうちゃんの物語」である。ふうちゃんは、母・房子の愛称。母は、正木俊二さんの家で、「夢二さん」に何度も会ったという。

 「代々木の俊二さんの家に行くとね、いつも夢二さんがいたの。2階に居候していたみたいよ」と母。俊二さんは、正木六郎(母の姉の夫)の兄である。六郎さんは6番目だが、俊二さんは2番目。

 俊二さんの本業は医者だが、不如丘(ふじょきゅう)というペンネームを持つ小説家でもあった。夢二は、不如丘さんに看取られて亡くなったので、夢二年表には、必ず正木不如丘の名が登場する。

 作家・正木不如丘の名を知っている方は、いないと思う。もちろん私も読んだことがない。そこで、図書館で検索してみたら、何冊も出てきた。1冊借りて来たが、旧字のうえに、紙も変色しているので読む気がしなかった。右写真は、裏表紙のコピーである。

 昭和2年に大衆文学全集になっているところをみると、大正時代に書いた作品集だろう。住所は東京市外代々木となっている。母が「代々木の俊二さんの家」と話しているのは、確かだった。

 伯母と六郎さんの結婚は、この全集が発行された昭和2年。母にとって、六郎さん以外に、もうひとり羽振りのいい兄が、新しくできたことになる。兄と言っても、俊二さんは、義理の兄のそのまた兄に過ぎない。そこへしょっちゅう遊びに行くなど、今なら考えにくいことだが、当時は食客や居候など他人がひとつ屋根で暮らす例が結構あったので、人の出入りが多かったのではないか。正木家も、遊びに行きやすい雰囲気だったのだろう。

 夢二は、いつごろ正木家に居候していたのか。年表には書いてないが、母が女学校に通っていた時期だということはわかっている。「その頃の夢二さんは、決まった家などなかったのよ。奥さんも、子供もいなかったわ。夢二さんが居候していた部屋はいつでも使えるように、空けてあったの」と母は言っている。仙台の天江富弥氏(富弥氏の姪は、私の小中学校の友人)もパトロンの1人だったというから、あちこちのパトロンの家を渡り歩いていたと思われる。放浪画家と言われるゆえんだ。

 「夢二さんは、私みたいな子供にも優しくてね。2階にあがっていくと『おう、ふうちゃん。よく来たな』と、イヤな顔もせず、話し相手になってくれたのよ。いつかね、『そうだ、ふうちゃんの顔を描いてやろう』と言ったの。『そんなの恥ずかしいから要らない』と断ったのよ。そしたら榛名山の絵を描いてくれたわ」。

 「え!その絵どうしたの?」「もちろん焼けてしまったわ」。母が夢二好みの面長、色白、目がぱっちりの美人だったら、いくら断られても、強引に母をモデルにしたに違いない。母がその正反対にいることは、このシリーズをお読みくださっている方なら、ご存知のはずだ。

 三越に勤めていた祖父・加藤英重も、夢二の年表に登場する。昭和6年に、夢二は新天地を求めてアメリカに向かったが、費用を工面するために新宿三越で「渡米告別展」を開いた。そのお膳立てをしたのが、祖父である。

 若い頃にカリフォルニアに住んでいた祖父は、夢二滞米中の便宜をはかってくれるようにアメリカ在住の知人に、頼んだ。感激した夢二は、箱書き付きの絵を祖父に贈っている。

 左は、昭和62年4月21日の読売新聞夕刊だが、祖父に贈られた静物画のその後のいきさつが、詳しく載っている。

 写真は、静物画と箱書きを前にした伯母の加藤明子(左)と、笠井千代さんである。笠井千代さんは、夢二がもっとも愛したと言われる笠井彦乃さんの妹だ。

 母は、「あなたの方が夢二さんと親しかったのだから、東京に出て来て取材を受けたら」と姉が言ってくれたのだが、取材当日は都合が悪く、仙台を離れることが出来なかった。

 昭和6年に渡米した夢二は、欧州を回って、昭和8年9月に神戸港に帰ってきた。その頃は、すでに病魔におかされていたようで、1年後には亡くなっている。

 「昭和9年の1月19日に、信州の富士見高原療養所の正木不如丘所長に迎えられ、特別病棟に入院。手厚い看護を受ける」と、年表にある。

 富士見高原療養所は、所長が作家ということもあり、堀辰雄、久米正雄など多くの文化人が療養生活を送った。ここを舞台にした作品が、堀辰雄の「風立ちぬ」であり、久米正雄の「月よりの使者」である。

 「月よりの使者」は3度も映画化された。私は、昭和29年の山本富士子、菅原謙二、若尾文子、船越英二出演の映画を、少し覚えている。母は「不如丘さんの所でロケしたのよ」と話していた。

 不如丘さん(母がこう呼ぶので、私まで馴れ馴れしい言葉遣いになってしまう)は、いつから療養所の所長になったのか。Googleにその名を入れてみたら、なんと359件もヒットした。

 その中の「探偵作家辞典」に、次のように載っていた。

本名正木俊二。1887年(明20)、長野県生まれ。東京帝国大学医学科卒。成績優秀のために恩賜の銀時計を受ける。福島の県立病院院長を経て、フランスのパスツール研究所へ留学後、慶応大学医学部内科助教授となるが、長野県の結核療養所(サナトリウム)である富士見高原療養所に赴任。医学部内の対立から1929年(昭4)には辞して療養所の所長に専念する。療養所は「高原のサナトリウム」として有名になる。富士見高原療養所赴任後の執筆活動による印税は療養所維持に充てていたという。


 これによると、正木不如丘は、昭和4年から所長に就任しているので、夢二を特別病棟に迎えるなど、造作ないことだった。ふうちゃんは、この病棟に夢二さんを訪ねている。昭和9年の7月か8月かは覚えていないが、真夏の太陽が照りつける日だったという。蓼科での避暑の帰りに、途中下車した。

 「青白い顔の夢二さんがベッドで横になっていたわ。『よく来てくれたね』と、ちょっとほほえんだけど、元気はなかったわよ。私に『いつ産まれるんだ。それまで生きていられないなあ〜』など悲しいことを言ってね。あんな夢二さんを初めて見たわ」。

 この時、母は妊娠していて、お腹も大きかった。「夢二さんを見舞った」と夫である私の父に話したところ、「結核がうつったらどうするんだ!」と血相を変えて怒ったという。当時は結核は不治の病と言われていたので、父の怒りはもっともだ。20歳そこそこの小娘同様の母には、そこまで思慮が及ばなかったのだろう。

 夢二が、「ありがとう」の言葉を残して息を引き取ったのは、昭和9年9月1日。兄が生まれたのは9月7日。「それまで生きていられないなあ〜」というつぶやきどおりになってしまった。

 右写真は、1歳誕生日の兄。父が心配した結核にも罹らず、先月、古希を迎えた。若い学生相手の仕事を、今も続けている。

 兄は、東大病院の産婦人科で生まれた。安産だったのに、産婦は絶対安静ということで、母は、1週間は寝返りも打てなかったそうだ。テレビや映画では、戦前の出産シーンは、自宅という設定が多いが、母は4人とも病院の世話になっている。

 話はそれるが、母がお産で入院した病院には、すでに祖母(父の母)が入院していた。そんなわけで、祖母は、生後1週間の孫と病室で対面することができたのである。生まれたばかりの孫を見た祖母は、「ずいぶん色の黒い子だね」と言った。それから数時間もたたない9月15日に、息を引き取ったという。「こんなに泣いたことは今までになかったよ」と父が話すのを何度も聞いている。

 ところで、下の新聞は、夢二の死亡を伝える新聞記事。大正ロマンを代表する画家にしては、寂しい扱いだ。肥りすぎを悲観して自殺した少年、猿が幼女を噛むなど、興味ある話題が載っているので、全部掲載する。



 夢二の死亡記事の後半を書き写す。旧仮名や旧字は、現在使われているものに変えた。

「・・現在夫人はなく、昔氏が工芸品などを売っていた「港屋」時代の夫人環さんとの間に生まれた不二彦君(二十五)を画伯は非常に可愛がっていたが、現在は九州にいるらしいと」

 彼が愛した環さん、彦乃さん、お葉さん(前項に3人の写真がある)に書き送った手紙を読むと、女性にだらしないという感じは受けない。その時その時を精一杯生きた夢二が見えてくる。

 しかし、晩年はこのように誰も寄りつかなかった。訪れる人もいない病室に、「ふうちゃん」が現れた時は、嬉しかったにちがいない。もしかしたら、母は、夢二が最後に会った女性だったかもしれない。母20歳、夢二49歳の夏の日のことだった。

 新聞記事にある「港屋」は、大正3年に日本橋区呉服町に、妻・環のために開いた店である。港屋は若い女性に人気があり、繁盛したらしい。美大の学生だった彦乃さんも常連客だった。恋に落ちたふたりは、逃げるようにして京都などを転々としたが、彦乃さんは、病気で大正9年に亡くなっている。

 「港屋」があった地に、上のような記念碑が建っている。ビルの谷間にあるので見つけにくいかもしれないが、日本橋に行かれた方は、ついでにどうぞ。同じ日本橋だが、少し離れた「明治座」の近くに、夢二グッズばかり売っている「港屋絵草紙店」がある。ネットの友達が教えてくれた。いまなお、人気があることが、おわかりいただけるだろう。(2004年10月23日 記)

 今日、10月30日の朝日新聞夕刊に、「港屋絵草紙店」の写真が載った。(左)。「毎週、ひとつの展覧会から秀逸な一点を紹介します」のコメントがついている。

 東京・世田谷区の「世田谷文学館」で開催中の「詩人画家・竹久夢二展」の中の一点である。他に、自筆日記や屏風絵、装丁本など250点。11月28日まで。

 「・・目の大きな夢二式美人が2人。右にはステッキを小脇に抱え、山高帽をかぶった黒服の男。後ろには薄く帆船が描かれた大きなちょうちん、遠くには洋館のシルエット。和風への感傷と西洋へのあこがれが溶け合う。・・港屋は、日本のデザイナ-ズブティックの走りである。・・」と、記事にあった。

 確かに、和風と欧風が混じり合った魅力的な作品だ。日本橋にある記念碑の元絵は、この作品だった。(2004年10月30日 記)

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