母が語る20世紀

 16. 中村不折

 「中村不折(なかむらふせつ)に・・」と母が話しはじめた時に、その名を一度も耳にしたことがなかった私は、キョトンとしてしまった。でも、知らなかったのは、私だけなのかもしれない。不折は、博物館や銅像が出来るほどの著名人である。右銅像は、東京・台東区・根岸の住居跡に立つ中村不折。

 広辞苑には「洋画家・書家。本名はさく太郎。江戸生まれ。はじめ南画を学び、のち小山正太郎らに洋画を学ぶ。渡仏してローランスに師事。帰国後、太平洋画会で活躍。歴史画を得意とした。また、六朝書道を研究、書道博物館を創設。(1866年〜1943年)」とある。

 この項を書くにあたり、根岸(JR「鶯谷」駅から徒歩5分)にある書道博物館(左)に行って来た。もともとは、私的な博物館だったが、平成12年に台東区立になった。

 不折が日清戦争の従軍記者で中国に行った時に、甲骨・青銅器・瓦当・仏像・経巻・文房具などをたくさん持ち帰った。これら蒐集品を展示している。画家だった彼が書道研究に没頭するようになったのは、日清戦争以後である。

 根岸は、「根岸の里のわび住まい」で有名な地だ。その前に季語を入れれば、サマになると言われる。たとえば「初しぐれ根岸の里のわび住まい」。江戸・明治時代には、わびさびの代名詞のようにと言われた一帯だが、今はラブホテルが並ぶ花街だ。書道博物館の真ん前に「子規庵」があり、この2カ所だけは文化の香りがする。

 左写真の「新宿中村屋」の字を書いたのが、中村不折である。包装紙のロゴ(右)もお馴染みだろう。相馬黒光(中村屋の創始者)の伝記には、「中村屋サロン」に出入りした人物の1人として登場するが、中村不折と中村屋は、親戚でもなんでもない。

 さらにややこしいことに、中村屋という屋号すら、相馬黒光とはなんら関係がない。彼女が東京でパン屋でも始めようかという時に、本郷に住む中村万一が、屋号も店も道具も使用人も譲ってくれたという。

 森鴎外も中村不折に墓石の字を書いてもらっている。鴎外の遺言だったという。鴎外の墓は三鷹の禅林寺にある。太宰治の墓を見学に行った時に、偶然見つけた。(右)。太宰の墓の向かい側にあり、文豪2人が見つめ合っている格好だ。本名の「森林太郎」だけ書くようにの遺言どおりの、あっさりした墓だ。

 前置きが長くなったが、祖父が中村不折と親交があったらしい。母は面識がないので、「母が語る20世紀」で取り上げるのはおこがましいが、両親との会話には、たびたび不折の名前が登場したという。

 祖父は、涼しい地と暖かい地に、別荘を持っていた。蓼科(長野県)の「去来荘」と、熱川(静岡県)の「臥風荘」である。蓼科を推奨したのは、竹久夢二のパトロンでもあった正木不如丘さんだ。彼が所長をしていた富士見高原療養所と蓼科は近い。

 母の話によると、別荘の名前は祖父が考えたが、表札は不折に書いてもらった。高名な書家に依頼したとなると、高かったに違いないが、今となっては値段を聞く人もいない。

 晩年の祖父母は、熱川の「臥風荘」で暮らしていたので、小学生の時に泊まったことがある。祖父母が死んだ後に建物を壊してしまったが、臥風荘の地主Mさんとは、その後も行き来があった。

 「去来荘」は、一昨年まで老醜をさらしていた。昭和12年築なので、70年近くも風雪に耐えていたことになる。ここには私も数度泊まったことがあるが、ごく若い時のことだ。この別荘は加藤家の物であり、私にはなんら関係はない。

 上は、去来荘の玄関前で撮った写真。兄や姉の年齢から推測するに、昭和13年か14年の夏である。私はまだ生まれていない。

 左の前の幼児は兄と姉。後の小学生2人は従兄。左端が母、その隣が伯母。右3人は、隣の別荘にお住まいのKさん。Kさんの名前はよく聞いている。別荘以外でも親しくしていたらしい。右端に座っている方が、「おばさんは、今そちらにいらっしゃるんですね。そのうち遊びに行きます」と、数年前に電話をくれた。

 お隣と言えば、去来荘のすぐ上に、柳原白蓮の別荘があった。「いつも浴衣を着て、小さい帯をちょこんと付けていたのよ。白蓮さんは馬肉が好きなんですって。いつも管理人のおじさんが届けていた」と母は語る。何軒かまとまって、管理人を頼んでいたが、野ブドウを漬け込むなど、親切なおじさんだったらしい。

 柳原白蓮は、1885年に柳原伯爵の次女として生まれた。大正天皇とは、いとこの間柄だ。最初の結婚に破れた後、九州の炭坑王と再婚。再婚相手と心の通い合いがなくて悶々としていた時に、短歌を通じて知り合った宮崎竜介と恋愛。「白蓮事件」として世間を騒がせた。母が白蓮さんを見かけた頃は、宮崎氏と再々婚、子供もいたはずだ。なぜか、別荘に住んでいたのは、1人だったという。

 ところで、去来荘と臥風荘の表札はどうなったのだろう。従兄は、「臥風荘のは、お袋が大事にしていたんだけど、どこに行ったのかなあ。去来荘のは、そもそも見たことがないよ」と、言っていた。母の記憶では、道路から見える坂の途中に、表札があったという。祖父の気持ちなど知るよしもなく、古くなったので捨ててしまったのかもしれない。

 先日、蓼科に行った折りに、去来荘に寄ってみた。従兄の長男が新しく建て直したと聞いていたが、真新しいログハウスが聳えていた。(左)。去来荘の表札(右)は、中村不折の字体とは似ても似つかぬものだ。

 伯母が元気の頃は、母も去来荘によく泊まっていた。その家が無くなっている。「あらどうしちゃったの?」と、わけがわからない顔をしていた。母には、センチメンタルジャーニーとはならなかったようだ。周辺の景観はさしてすっかり変わっていないが、元の去来荘がないことが、母を混乱させてしまった。

 自宅以外に別荘を2つも持っていた加藤家だが、私が物心がついた時には、裕福とはほど遠い家だった。祖父が事業に失敗したという話は聞いたことがない。戦争を境に没落するなどあり得るだろうか。きょうだいの中でも、幼児期の贅沢な暮らしをまったく経験していない私と妹は、「なぜ昔は良かったのだろう」と、よく話題にする。母は娘時代の中流生活を自慢したことは1度もないので、わずかに残る写真と、母が思いだしたように語る断片がなければ、当時の生活は想像すらできない。(2004年11月20日 記)

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