行きあたりばったり銅像めぐり
  75回

 ペリー提督 2

ペリー全体像ペリー顔 去年12月に下田で会ったペリーの胸像を、66回の銅像めぐりで取り上げた。またしても9月2日に、函館でぺりーの立像(左右)に出会った。

 偶然にも、下田と同じ熟女5人での旅。下田は踊り子号とレンタカーを使ったが、函館はJR東日本の「大人の休日倶楽部3日間乗り放題12,000円」の券を利用した。

 ペリーは、元町公園で函館の海(右下)を見下ろしている。下田の胸像に比べ立派で、立っ元町公園からの函館湾ている場所もいい。街路樹のナナカマドは葉が少し色づき、赤い実が鮮やかだった。北海道は秋が早い。

 元町公園付近には、旧公会堂・旧イギリス領事館・写真歴史館など開国当時の洋館、続く道にはハリストス正教会・カトリック教会・聖ヨハネ教などキリスト教会がそろい踏みしている。

 歴史散策をしながら異国情緒も味わえるとあって、観光客は必ず訪れる所だが、ペリーに気づく人はほとんどいない。考えてみると、銅像など見たところで面白くない。私とてHPにまとめる作業がなかったら、どうでも良いことだ。

 1853年に浦賀沖に現れたペリー提督は、翌1854年に日米和親条約を締結。長い鎖国に終わりを告げる有名な条約である。この条約で、箱舘(当時はこの字を書いた)と下田の開港が決まった。ペリーは下田訪問の後に箱舘に向かった。

ペリー会見所跡 ペリー会見挿絵 新島襄渡航碑
現在の弁天町にあるペリー会見所跡。 会見所の説明に沿えてあった「日本遠征記」の挿絵。 1864年に新島襄が密航した港。

 ペリーが5隻の艦隊を率いて箱舘に来港したのは、1854年5月17日。有力商人の山田屋寿兵衛宅で松前藩家老の松前勘解由と会談した。ペリー著の「日本遠征記」の挿絵に、会見の様子が描かれている。市内や湾内の調査をするなど本来の仕事以外に、西洋音楽を聴かせたり、鉄板写真術を教えるなど領民との交流もはかった。これは下田の場合と同じだ。

 ペリーが会見した山田屋跡に簡単な碑がある。ここは市電終点の「函館ドッグ」に近く、中心から少し離れている。ペリー像が、会見場所でなく元町公園にあるのは正解だ。ここを訪れる人などめったにいないのだから。

 会見所から5分ほど歩いた海岸に、新島襄が1864年に国禁を犯して渡航した碑が立っている。吉田松陰が下田で密航を企てて失敗したので、新島襄は箱館を選んだそうだ。吉田松陰が密航していれば、明治の世に大きな功績を残したに違いない。その点、新島襄の密航は成功し、10年後に帰国して同志社大学を創設する。

 箱舘五稜郭は、旧幕府軍が戦った舞台として知っていたが、何のために、きれいな星形城郭を建築したのか。新選組の土方歳三が命を落とした所、榎本武揚が最後のあがきをした所としか知らない。箱舘のペリーを調べているうちに謎が解けた。

五稜郭模型 タワーから見た五稜郭 五稜郭の形をしたマンホール
五稜郭タワーにある模型。奉行所がある。 真ん中の白っぽい屋根は奉行所建築中。五稜郭タワーから撮影 函館のマンホールは五稜郭の中に公会堂がある。

 ペリーが来港したことで、幕府は外国との交渉や海岸の防備をするために「箱舘奉行」を設置。蘭学者の武田斐三郎に、奉行所を設置するための五稜郭設計を命じた。1857年に始まった工事は、7年後の1864年に完成し、奉行所は五稜郭の中に移転。蝦夷地や箱館の政治の中心になった。今は、奉行所の再建工事中で、見学できなかった。数年後には見事な姿を現しそうだ。(2008年9月7日 記)

感想を書いてくださると嬉しいな→
銅像めぐり1へ
次(桃太郎)へ
ホームへ