行きあたりばったり銅像めぐり
  81回

  伊能忠敬 その2

記念館の裏にある像 日本地図を作った伊能忠敬については、銅像めぐり68回で取り上げている。いまにも歩き出しそうなその銅像は、深川の富岡八幡宮の境内に立っている。測量に出る前に、八幡宮にお詣りしたからだ。

 今回の像(左)は、江戸に出る前に商売を営んでいた千葉県の佐原にある。佐原を訪れたのは2009年5月。銅像には関係ない話だが、佐原市は、いつのまにか香取市佐原区になっていた。平成の大合併で、以前の常識がないがしろにされるような気分である。

 伊能忠敬は、1745年に今の九十九里町で生まれた。17歳のときに、香取郡佐原村の伊能家に婿入り。当時の伊能家は、米の売買や酒づくりをする大きな商家で、佐原村の名主でもあった

 この像は伊能忠敬記念館の裏、駐車場付近に立っている。正面入り口から入った人は、見過ごすかもしれない。

 この記念館(左下)は、さすがご当地だけのことはある。彼の生涯や日本地図が何枚も展示してあった。

 測量に使った量程車(紐をつけて地面を引くと車輪が回る。その回転数から距離を計る)・象限儀(天体観測に使った)・梵天(測量地点の目印に竹竿の上につけた)・半円方位盤(山や島の方位を測定)・御用旗(測量が国の仕事だということを示す旗)など、いろいろな測量道具の実物も充実していた。残念ながら、館内は撮影禁止だった。

記念館入り口 息子に商売をまかせて江戸に出たのは、50歳だった。55歳の時から全国を10回に分けて測量した。4回までの測量は自費だったが、地図の正確さに感心した幕府が費用を出すようになった。「御用旗」がそれを示している。

 いまほど寿命が長くない時代に、50歳で新しいことをはじめた気力・体力に感嘆するばかりだ。

 もっとも、江戸に出て初めて勉強したわけではない。記念館の展示で知ったのだが、もともと学問が好きだったので、家業の合間に天文暦学の勉強をしていた。

 利根川に通じる小さな川・小野川をはさむような形で、記念館と忠敬の旧居は向かい合っている。婿入りす前からの家で、今も当時の原型をとどめている。

旧居外観 旧居表門 旧居内部
記念館側から見た旧居 旧居の表門 旧居内部
 
 佐原は、江戸時代から利根川の水運の中継港として栄えた町。旧居近辺には、江戸・明治・大正の建物が軒を連ねていて、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。映画やドラマのロケに使われている理由がよくわかる。

 訪れた日は、アヤメには少し早いウイークデーだったが、たくさんの人がそぞろ歩いていた。町並み交流館や観光案内所も充実していて、ぶらりと行っても困ることはない。小舟に乗っての町並みを見るコースも設定されている。

江戸時代創業の蕎麦屋 佐原公園の像
舟めぐり
1782年創業の蕎麦屋。訪れた日は「本日休業」がかかっていた。 上は佐原のマンホール。下は、町並みや利根川をめぐる小舟。 佐原公園に立つ銅像。

 歴史的な町並みから少しはずれてはいるが、忠敬の銅像がもう1つある。観光客はだれもいない佐原公園に堂々と立っていた。戦前の銅像によくあるタイプで、高い台座から見下ろしているので、顔もよく見えなかったが、望遠カメラのおかげでこんな姿だとわかった。記念館の裏手にある像より、はるかに立派だった。富岡八幡宮にある像とよく似ている。 (2010年4月23日 記)

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