84回

 ガウディ

ガウディ像 2010年8月に北スペインに行ってきた。パンプローナではヘミングウェイに、レオン(10〜12世紀に栄えたレオン王国の首都)では、ガウディ(左)にばったり出会った。

 巡礼の道をめぐる旅だったので、予備知識としては教会ばかり。ふたりの芸術家に出会えとは思ってもみなかった。

 ガウディは、1852年にスペインのカタルーニャ地方で生まれた。19世紀〜20世紀にかけてのモデルニスモ(アールヌーボー)期に活躍した建築家である。

 彼が学んだ建築学校の校長は「狂人なのか天才なのか分からない。時が明らかにするだろう」と言ったと伝えられる。

 15年ぐらい前にバルセロナに行った時に、サグラダファミリアはもちろんグエル公園やグエル邸を見た。曲線と装飾がたくさんついた建築は、今見ても斬新というか、風変わりだ。100年近い前の校長が、「時が明らかにするだろう」と言った気持ちはよくわかる。

 でも彼の才能を当時から認めていた実業家がいた。グエル邸の主・グエルだ。40年間にわたって支援したという。

 1926年にミサに行く途中、路面電車に轢かれた。この時の服装が浮浪者と間違われるほどみすぼらしかったので手当が遅れ、3日後に73歳で亡くなった。晩年は身なりをかまわなかったそうだ。

ボディネスの館 浮浪者と間違われた話を15年前にバルセロナで聞いているので、可哀想なガウディというイメージを勝手に作り上げていた。

 今回出会ったガウディは、浮浪者とは似ても似つかぬ紳士である。このギャップに少し驚いたが、たくさんの建築を手がけた者の服装としては、この銅像こそが相応しい。私もベンチに座って一緒に写真を撮った。

 このベンチと相対したところに、ガウディが設計したボディネスの館(左)が建っている。1892年〜93年にかけてというからまだ40歳頃の若い時の作品。曲線も丸みもない外観からは、ガウディの作品だとは分からない。

 今は銀行として使っているので、内部の見学も可能だと思うが、時間がなかった。なんせ、旅の目的は巡礼である。

アストルガの司教館 ボディネスの館を見た翌日、レオンから西に50`行ったアストルガという町でまたガウディ建築の司教館(左)を見た。1887〜93年建築。

 当時のアストルガの司教がガウディと同郷だったので、依頼したという。でもあまりに奇抜だったので、聖職者が住む家としては相応しくないと、司教は一度も住まなかった。

 彼の設計に惚れ込んでの依頼ならば、多少の奇抜さは最初から分かっていたはずだ。何も知らずに頼んだとしか思えない。なんとも勿体ない話だ。

 今は博物館になっている。ちょっとだけ中をのぞいてみたが、ガウディワールドの空間が広がっていた。100年以上前の司教さんには、落ち着けなかったかもしれない。

サグラダファミリア ガウディと言ってすぐ思い出すのは、バルセロナのサグラダ・ファミリア(左)ではないだろうか。最初にこの言葉を聞いたときは、サラダの1種と勘違いしたが、なんのことはない「聖家族」のスペイン語だ。

 ガウディの後半生は熱心なカトリック教徒として過ごし、1914年以降は宗教関係以外の依頼は断っていた。しかしバルセロナが財政危機になり、彼の生存中は完成しなかった。死後75年経った今も建設が続いている。

 生前の設計図はスペイン内戦で焼けてしまったが、模型が残った。その模型を手がかりにして、工事が進められている。「完成までには100年もかかります」と聞いていたが、今回の旅で新たな情報を手に入れた。

 なんと!16年後の2026年に完成予定だという。新幹線の地下鉄が建設されるので、その前に作ってしまおうということらしい。

 写真でお分かりかと思うが生誕の門の左側に、コンクリートの建物を建築中。右側の重厚な石造りと釣り合っていない。こんな建物をつけ足すぐらいなら、そのままにしておいた方がマシだと思うが、ガウディの模型が残っているので、そうもいかないらしい。バルセロナでいちばんの人気スポットであるだけに、賛否があったようだが建築は進んでいる。

 帰国の2ヶ月後の朝日新聞(2010年11月9日)に次のような記事が載った。
ローマ法王ベネディクト16世は7日、バルセロナのサグラダ・ファミリア教会で献堂式を行った。建物は未完成だがこの日のミサにより、着工から130年近くを経て初めて正式な祈りの場になった」。
(2010年11月23日 記)

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